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蛍の光の原曲は何?バーンズとの関係、1881年の日本語詞、別れのワルツとの違いを徹底解説

穂積 美咲 穂積 美咲 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
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卒業式や送別会で歌われる「蛍の光」。スーパーや百貨店の閉店時間にもよく似たメロディーが流れますが、その原曲は日本で生まれた音楽ではありません。もともとは、スコットランドに伝わる民謡「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」です。スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが古い歌を採録・改作し、世界中に広めたことで知られています。

日本では1881年(明治14年)に編纂された文部省の『小学唱歌集 初編』に「蛍」という題名で収録されました。日本語詞には稲垣千頴(いながき・ちかい)が関わったとされ、原曲とは異なる勉学や別れの意味が込められています。また、閉店時に流れる音楽は、古関裕而が編曲した「別れのワルツ」であることも要点です。2026年現在も親しまれるこの曲の歴史を、海外の音楽資料、日本の教育史、レコード会社の公式解説から整理します。

【原曲の正体】蛍の光はスコットランド民謡「Auld Lang Syne」だった

蛍の光原曲

「蛍の光」の原曲は、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」です。日本語では「久しき昔」「過ぎし日」「懐かしい昔」といった意味に訳されます。

この曲はスコットランドを代表する歌の一つで、英語圏では大晦日のカウントダウンや新年を迎える場面、旧友との再会、結婚式などでも歌われます。日本での卒業式のイメージとは異なり、懐かしい友人との思い出を振り返り、友情を確かめ合う歌として親しまれてきました。

ロバート・バーンズは原曲を一から作曲した人物ではない

この歌と深く関わるのが、スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns、1759~1796年)です。

バーンズはスコットランドの伝統文化や民謡を収集した人物でもあり、「Auld Lang Syne」についても、古くから伝わる歌を採録し、自らの手で改作しました。

ナショナル・トラスト・フォー・スコットランドの解説によると、バーンズは1788年にこの歌を記録し、1793年には編集者ジョージ・トムソンに改作した歌を送っています。その後、バーンズの歌詞は広く知られるようになりました。

つまり、バーンズが完全にゼロから作詞・作曲したという説明は正確ではありません。古い民謡を保存し、歌詞を整え、後世に伝わる形へ発展させた人物と理解するのが適切です。

現在世界中で知られるメロディーにも別の歴史がある

興味深いのは、歌詞とメロディーの成立経緯が同じではないことです。

グラスゴー大学の「Editing Robert Burns for the 21st Century」プロジェクトによると、バーンズの歌詞が1796年に『Scots Musical Museum』第5巻へ掲載された際には、現在一般的に知られているものとは異なる古い旋律が付けられていました。

その後、1799年にジョージ・トムソンが別の旋律を組み合わせて出版しました。この旋律は1759年のスコットランドの舞曲集にも登場する「The Miller's Wedding」に由来するものです。

現在世界的に知られている「Auld Lang Syne」のメロディーは、このように複数の伝統音楽や編纂者の選択が重なって定着しました。

したがって、「蛍の光」の原曲を理解する際には、バーンズが関わった歌詞の歴史と、現在歌われる旋律の歴史を分けて考える必要があります。

【1881年の成立】小学唱歌集と稲垣千頴による日本語詞の由来

スコットランドで生まれた「Auld Lang Syne」が日本に伝わったのは、明治時代です。

当時の日本では、近代的な学校教育に西洋音楽を導入する取り組みが進められていました。その中心となったのが、1879年に設置された文部省の音楽取調掛です。

同機関が編纂した『小学唱歌集 初編』には、現在の「蛍の光」が第20番「蛍」という題名で収録されています。原曲の旋律に日本語の歌詞を付けた、初期の代表的な文部省唱歌です。

稲垣千頴の作詞説には歴史的な根拠がある

日本語詞の作者として知られるのが、国文学者・教育者の稲垣千頴(いながき・ちかい)です。

ただし、ここには少し複雑な事情があります。『小学唱歌集 初編』の初版には、現在の楽譜集のような作詞者名の表示がありません。そのため、国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、初版に作詞者の記載がないことが紹介されています。

一方、稲垣千頴の研究を進めた中西光雄の著作などでは、明治14年(1881年)7月15日付の『東京日日新聞』に掲載された「音楽略説」が重要な根拠として取り上げられています。そこには「蛍の光」の歌詞について、東京師範学校教員の稲垣千頴が作った旨の記述があるとされています。

また、後年の唱歌教科書では稲垣千頴の名前が作詞者として記載されるようになりました。現在、一般的には稲垣千頴作詞、スコットランド民謡として紹介されています。

1881年と1882年、掲載年と刊行時期の違い

「1881年に掲載された」という説明にも、書誌上の補足があります。

国立国会図書館の書誌情報では、『小学唱歌集』全体の出版年は1881~1884年とされています。一方、音楽教育史の研究では、初編の実際の刊行時期を明治15年(1882年)4月とする説明もあります。

これは編纂・成立の時期と、実際に印刷・刊行された時期を区別する必要があるためです。いずれにしても、明治初期に成立した日本の近代唱歌を代表する作品であることに変わりはありません。

原曲をそのまま翻訳した歌詞ではない

ここが「蛍の光」の歴史で特に興味深いところです。

スコットランドの原歌詞は、昔の友人との友情や懐かしい日々を振り返り、再び杯を交わそうという内容です。それに対して日本語詞は、学校で学んだ年月、卒業、友人との別れ、将来への願いを中心に構成されています。

つまり、日本語版は原曲の逐語訳ではなく、日本の学校教育や卒業という文化に合わせて新たに作られた歌詞なのです。

【歌詞の意味】蛍の光とオールド・ラング・サインは何が違う?

同じメロディーを持つ二つの歌ですが、歌詞の意味には大きな違いがあります。

「蛍の光、窓の雪」は勉学に励んだ年月を表している

日本語詞の冒頭にある「蛍の光、窓の雪」は、中国の故事に由来する「蛍雪の功(けいせつのこう)」を踏まえた表現です。

蛍雪の功とは、苦労しながら勉学に励み、努力の成果を得ることを意味します。

その背景には、次の二つの故事があります。

  • 車胤(しゃいん)の故事: 貧しくて灯油を買えなかった車胤が、蛍の光を頼りに読書をしたという話。
  • 孫康(そんこう)の故事: 雪明かりを利用して書物を読んだという話。

こうした故事を背景に、「蛍の光、窓の雪」という表現には、厳しい環境でも学問に励んできた日々が込められています。

続く「書よむ月日重ねつつ」も、長い年月をかけて学びを積み重ねてきた学校生活を表しています。

「いつしか年も過ぎの戸を」は卒業の日を描く表現

「いつしか年も、すぎの戸を、あけてぞけさは、わかれゆく」という部分では、学びの日々が過ぎ、ついに別れの日を迎えた情景が描かれています。

「すぎ」には時間が過ぎるという意味と、杉の戸を連想させる表現が重なっているという解釈もあります。文語調の美しい言葉遣いが、卒業という節目を印象づけています。

2番は残る人と旅立つ人が互いの幸せを願う歌

2番の「とまるもゆくも、かぎりとて」は、同じ場所に残る人と、新しい場所へ旅立つ人の双方に別れが訪れることを表現しています。

「かたみにおもふ」「さきくとばかり」という言葉には、互いを思いやり、これからの無事や幸福を願う気持ちが込められています。

ここには、単に学校を卒業する寂しさだけでなく、離れて暮らすことになっても友情や思い出は失われないというメッセージがあります。

実は原版には3番と4番も存在した

現在の「蛍の光」は1番と2番を歌うことが一般的ですが、『小学唱歌集 初編』の原版には4番まで掲載されています。

3番では、筑紫から陸奥まで遠く離れていても心を一つにすることが歌われ、4番では千島や沖縄を含む国土を守る務めが表現されています。

後半には、明治期の国家意識や国民としての役割を反映した内容が含まれているのです。

現在広く歌われているのは、主に卒業や送別の意味が伝わる1番と2番です。原版の全4番と、現在の一般的な歌唱内容は同じではありません。

【歴史年表】蛍の光に関わる人物・作品・出来事の関係

「蛍の光」の歴史を理解するには、スコットランドでの成立、日本での唱歌化、戦後のレコード化という三つの段階に分けると分かりやすくなります。

主な関係者と出来事を整理すると、次のようになります。

年代 人物・作品 関係・歴史的な意味
1759年 「The Miller's Wedding」 後に世界的に定着する旋律の由来となったスコットランドの舞曲。
1788年 ロバート・バーンズ 古くから伝わる「Auld Lang Syne」を採録。
1796年 Scots Musical Museum バーンズが改作した歌詞が第5巻に掲載される。
1799年 ジョージ・トムソン 現在一般的な旋律をバーンズの歌詞に組み合わせて出版。
1881年 『小学唱歌集 初編』 第20番「蛍」として日本語詞の唱歌が収録される。
1882年 東京師範学校附属小学校 卒業式で歌われ、学校の送別歌として広がるきっかけとなる。
1949年 映画『哀愁』 「Auld Lang Syne」のワルツ編曲が劇中で使用される。
1950年 古関裕而・別れのワルツ ユージン・コスマン名義でワルツ編曲版がレコード発売される。

この年表から分かるのは、「蛍の光」と「別れのワルツ」は別々の原曲から生まれたのではないということです。共通のスコットランド民謡を出発点に、日本の学校文化と戦後のレコード文化の中で、それぞれ異なる形に発展しました。

【卒業式の由来】なぜ蛍の光は日本の別れの定番曲になった?

スコットランドの「Auld Lang Syne」は、旧友との友情を確かめ合う歌です。それが日本では卒業式の代表曲になりました。

この変化には、日本の近代学校教育と卒業式の成立が深く関係しています。

1882年の卒業式で歌われたことが普及のきっかけ

文春オンラインの歴史解説によると、「蛍の光」は1882年2月の東京師範学校附属小学校の卒業式で歌われました。同年7月の東京女子師範学校の卒業式でも演奏され、出席していたアメリカ人動物学者エドワード・モースがその記録を残しています。

加えて、師範学校や女子師範学校で学んだ学生たちが卒業後に各地の学校へ教師として赴任したことも、全国への普及を後押ししました。

学校の先生が新しい卒業式の形式とともに歌を伝えていったことで、「蛍の光」は特定の学校だけの歌ではなく、日本各地で親しまれる唱歌になっていきました。

明治時代に日本独自の卒業式文化が形成された

立教大学の有本真紀教授による研究解説では、日本の卒業式が現在のような感動的な別れの儀式へ発展した背景が紹介されています。

明治20年代になると小学校でも卒業式が導入され、1890年の教育勅語発布以降、学校儀式を通じた感情教育が意識されるようになりました。

さらに1893年には儀式唱歌が定められ、みんなで同じ歌を歌うことが卒業式の一体感を生む重要な要素になっていきます。

「蛍の光」は、卒業生と在校生、教師と生徒、同じ学校で過ごした仲間たちが別れを共有する場面に適した歌でした。

原曲の友情を大切にするテーマと、日本語詞に込められた学校生活の終わりというテーマが自然に結びついたことが、長く愛唱される理由の一つです。

原曲の意味と日本の卒業式の意味は異なる

ここで押さえておきたいのは、原曲が最初から卒業式専用の歌だったわけではないことです。

スコットランドでは、年の終わりに旧友との思い出を振り返り、友情を祝う歌として歌われてきました。一方、日本では学校教育の中で別れの意味が強調されました。

同じ旋律でも、歌われる社会や場面が変わることで、その歌に結び付く感情も変化したのです。

【閉店BGMの真相】蛍の光と別れのワルツの違いとは?

スーパーや百貨店の閉店時間に流れる、ゆったりとした「蛍の光」のような音楽。実は、一般に「蛍の光」と呼ばれていても、正式には「別れのワルツ」という別の編曲作品である場合があります。

この曲の誕生には、1949年に日本で公開されたアメリカ映画『哀愁(Waterloo Bridge)』が関係しています。

映画『哀愁』が別れのワルツ誕生のきっかけ

1949年公開の映画『哀愁』では、ロバート・テイラーとヴィヴィアン・リーが「Auld Lang Syne」の旋律に合わせて踊る場面があります。

映画では、もともとの旋律がワルツ調にアレンジされて使用されました。この印象的な演出が日本でも注目され、レコード化につながっていきます。

古関裕而が編曲し、ユージン・コスマン名義で発売

このワルツ版を日本でレコード化する際に編曲を担当したのが、昭和を代表する作曲家古関裕而です。

日本コロムビアの公式解説によると、映画の反響を受けた同社は古関裕而に編曲を依頼しました。そして、ユージン・コスマンという外国人風の名前を使用し、「ユージン・コスマン管弦楽団」の演奏として発売しました。

作品名は「別れのワルツ」。発売は1950年(昭和25年)です。

古関裕而は「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などでも知られる作曲家で、NHK連続テレビ小説『エール』の主人公のモデルにもなりました。別れのワルツも、彼の優れた編曲力を伝える作品の一つです。

蛍の光と別れのワルツは拍子が違う

両者を区別する最も分かりやすい要点は、リズムです。

  • 蛍の光: 原曲の旋律を基本にした4拍子の唱歌。
  • 別れのワルツ: 同じ旋律を3拍子のワルツに編曲した器楽曲。

4拍子の「蛍の光」は比較的まっすぐに進む印象があります。一方、3拍子の「別れのワルツ」は、ワルツ特有の揺れるリズムがあり、ゆったりとした余韻を生みます。

メロディーが非常によく似ているため混同されますが、厳密には同じ演奏・編曲ではありません。

なぜ別れのワルツが閉店BGMとして定着したのか

日本コロムビアの公式解説では、1950年のレコード発売後、別れのワルツは大きな人気を集め、生活のさまざまな場面で「終了」「閉店」「別れ」を知らせる音楽として定着したと説明されています。

映画によって広まった別れのイメージと、ワルツのゆったりとした旋律が、閉店を知らせる場面に結び付いたと考えられます。

また、閉店時に音楽を流すことで、店内にいる人に営業時間の終了を自然に知らせられるという実用面もあります。音楽そのものが強い印象を与えるため、言葉による案内だけに頼らず、店内全体に終了のタイミングを伝えられるのです。

ただし、全国の店舗が同じ規則でこの曲を採用しているわけではありません。閉店時に流れる音楽は店舗や施設によって異なります。

「蛍の光」と「別れのワルツ」の違いを知ると、卒業式と閉店時に聞く音楽が似ている理由も理解できます。どちらも同じスコットランド民謡を源流としながら、日本で異なる役割を担うようになったのです。

【よくある質問】蛍の光の原曲に関するFAQ

Q1:蛍の光の原曲は何という曲ですか?
A1:スコットランド民謡の「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」です。「久しき昔」「懐かしい昔」といった意味があり、ロバート・バーンズが古くから伝わる歌を採録・改作したことで広く知られるようになりました。

Q2:蛍の光の日本語歌詞を作ったのは誰ですか?
A2:稲垣千頴(いながき・ちかい)とされています。『小学唱歌集 初編』には作者名が記載されていませんが、1881年の新聞記事などに稲垣千頴の作詞とする記録があり、現在は一般的に稲垣千頴作詞として紹介されています。

Q3:閉店時に流れる蛍の光は別れのワルツなのですか?
A3:一般的な閉店BGMとして知られる音源は「別れのワルツ」である場合が多いです。原曲は同じ「Auld Lang Syne」ですが、古関裕而が3拍子のワルツに編曲し、1950年にユージン・コスマン名義で発売した作品です。

まとめ:【プロの結論】蛍の光は国境を越えて意味を変えた名曲

「蛍の光」の歴史をたどると、単なる卒業式の唱歌ではなく、スコットランドの伝統音楽が日本の教育文化や戦後の大衆文化と結び付いて発展した作品であることが分かります。

原曲「Auld Lang Syne」は、ロバート・バーンズが古いスコットランド民謡を採録・改作した歌です。その後、ジョージ・トムソンらの編集を通じて現在一般的な旋律が定着しました。

日本では1881年編纂の『小学唱歌集 初編』に「蛍」として収録され、稲垣千頴による日本語詞が、勉学や卒業、友情、別れを表現する歌へと発展させました。

さらに戦後には、古関裕而による3拍子の「別れのワルツ」がレコード化され、閉店時の定番BGMとしても親しまれるようになりました。

今回の歴史から押さえておきたい判断要点は三つです。

  • 原曲の作者を尋ねられたら、バーンズが完全な創作者というより、伝承歌の採録・改作に関わった人物と説明する。
  • 日本語詞については、初版に作詞者名がないことと、稲垣千頴作詞とする歴史的根拠の両方を理解する。
  • 閉店BGMを聞いたときは、4拍子の唱歌版なのか、3拍子の「別れのワルツ」なのかをリズムで見分ける。

2026年現在も、「蛍の光」は卒業や別れを象徴する音楽として日本人の記憶に残っています。スコットランドでは旧友との友情を確かめる歌、日本では学びの日々を振り返る卒業歌、商業施設では一日の終わりを知らせる音楽。同じ旋律が異なる文化や生活の中で受け継がれてきたことこそ、この名曲の最大の魅力です。

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穂積 美咲

映画・ドラマ担当として5年以上の取材経験。cinema領域の公式発表・配信元の告知を一次情報として確認し、確認できない情報は記事に含めない方針です。

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