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九龍城砦の取り壊しでネズミは逃げた?大量脱出説と解体の経緯、跡地の現在を徹底解説

穂積 美咲 穂積 美咲 • 更新: • 公開: • 読了約 25 分
目次

1993年、香港の異様な巨大密集住宅群として世界に知られた九龍城砦(九龍寨城)の取り壊しが始まった。長年にわたり、薄暗い路地、むき出しの配管、排水溝、そして大量のネズミが共存していた場所である。そのため、解体工事によってネズミが一斉に周辺へ逃げ出したのではないか、という疑問が現在も語られている。

実際、解体前の新聞報道や当時の関係者の証言には、ネズミの存在を裏付ける記述が残っている。一方、1993年から1994年にかけての解体工事で、ネズミが大規模に街の外へ脱出したという出来事については、確認できる同時代の報道や公的記録が見当たらない。重要なのは、ネズミが大量に生息していた事実と、解体時に一斉脱出したという説を区別することだ。

【結論】九龍城砦の取り壊しでネズミは大量に逃げ出したのか?

九龍城取り壊しネズミ

最初に結論を整理すると、九龍城砦に大量のネズミが生息していたことは事実だが、解体工事によって何万匹ものネズミが一斉に逃げ出したという説には、確かな裏付けがない。

この話が広がった背景には、九龍城砦の特殊な生活環境がある。建物同士が密着し、地上には排水路やごみがあり、建物内部や路地には薄暗い空間が広がっていた。こうした環境でネズミが目撃されていたことは、1990年代初頭の新聞報道からも確認できる。

特に注目したいのが、1990年6月24日付の米紙ワシントン・ポストの報道だ。同紙は九龍城砦の路地を取材し、猫ほどの大きさに見えるネズミが、漏水するゴム製の給水管の周囲を走り回っていた様子を伝えている。また、1991年11月28日付の記事でも、住民が退去した後の路地にネズミが残っていたことを報じている。

つまり、ネズミの存在は後世に作られた怪談ではない。実際の取材記録に基づくものだ。ただし、これらの記事は解体前や住民退去時の状況を伝えたものであり、解体工事によるネズミの集団脱出を報告したものではない。(出典:The Washington Post、1990年6月24日・1991年11月28日)

大量脱出説が生まれた3つの背景

この説が語られやすい理由には、次の3点がある。

  • 生息数のイメージ:非常に狭い敷地に数万人が暮らし、飲食店や食品工場も集中していたため、ネズミが多いという印象が強かった。
  • 住環境の変化:建物を解体すれば、内部に潜んでいた動物の隠れ場所が失われる。周辺に移動する個体がいた可能性は考えられる。
  • 解体のインパクト:約350棟の建物が段階的に取り壊されるという出来事が、ネズミの大移動という想像と結びつきやすかった。

ただし、これらは大量脱出を証明するものではない。何匹が生息していたのか、何匹が周辺へ移動したのか、工事に際してどのような駆除措置が行われたのかについて、信頼できる一貫した統計資料は確認できない。

【実態検証】九龍城砦ではなぜネズミが大量発生したのか?衛生環境と下水事情

九龍城砦のネズミ問題を理解するには、単に「不衛生なスラムだった」という説明だけでは不十分だ。人口密度、建築構造、排水設備、廃棄物処理、行政上の特殊事情が重なり、衛生管理が難しい環境を生み出していた。

1. 建物が密集し、暗い路地が複雑につながっていた

九龍城砦の面積は約2.7〜2.8ヘクタール。資料によって面積の表記には差があるが、現在の公園と比較しても非常に狭い敷地だった。

1980年代後半には約350棟の建物が密集し、多くは10〜14階建てだった。建物同士が隣接し、増築や連結によって複雑な通路が形成されていたため、地上に十分な日光が届かない場所も少なくなかった。

2018年に学術誌『Land Use Policy』で発表された研究「Quality of life in a 'high-rise lawless slum': A study of the 'Kowloon Walled City'」では、建物の配置や住戸の構造、住民の生活の質が分析されている。

同研究は、九龍城砦を単純に無秩序な建築物の集合体とみなす見方にも修正を加えている。建築規制に沿っていなかった一方、建物の配置や境界には一定の制約が存在し、住戸の内部環境については一般的な古い集合住宅と比較できる部分もあったという。

つまり、街全体の環境が劣悪だったことと、すべての住戸が同じように劣悪だったことは別問題である。(出典:Land Use Policy、2018年掲載論文)

2. 開放排水路や下水の問題が深刻だった

ネズミの生息環境を考えるうえで、特に重要なのが地上部分の排水事情だ。

2018年の研究論文には、1986年に九龍城砦を視察した英国植民地行政官ゴードン・ジョーンズの記録が紹介されている。

その記録では、地上の環境について、開放排水路、下水、ネズミ、凹凸のある通路、垂れ下がった違法な電気配線などが存在していたと説明されている。特に夏場には、開放排水路や下水から発生する臭気が耐え難かったという。

一方、建物の内部に入って地上から離れると、環境が改善する場所もあった。建物の上階同士を階段や廊下で移動できる構造も存在していた。

この証言は、九龍城砦の衛生環境が場所によって異なっていたことを示している。街のすべてが同じ状態だったわけではないものの、地上の排水環境には大きな問題があった。(出典:Lauら、Land Use Policy、2018年、162ページ)

3. 給水管の漏水とごみの蓄積

1990年のワシントン・ポストの報道では、九龍城砦の路地に何本ものゴム製ホースが張り巡らされていたことも紹介されている。

住民は給水設備に独自に接続した配管などを使って水を確保しており、管から漏れた水が路地に滴り落ちる場所もあった。建物の隙間や通路には日光が届きにくく、生活ごみや廃棄物も衛生管理上の問題になっていた。

こうした環境は、ネズミにとって隠れ場所や移動経路を提供する。加えて、飲食店や食品製造業が密集していたため、食料となるものに接触できる機会も多かったと考えられる。

九龍城砦では、魚のつみれ、麺類、食品、玩具などを製造する小規模工場が営業していた。生活の場と商業・製造業の空間が密接に結びついていたのである。

ネズミの存在を裏付ける主な記録

  • 1990年6月:ワシントン・ポストが、ネズミと漏水する給水管が存在する路地の状況を報道。
  • 1991年11月:同紙が、住民の退去が進んだ街の路地にもネズミが見られたと報道。
  • 2018年3月:サウスチャイナ・モーニング・ポストが、写真家グレッグ・ジラードらの記録を振り返る記事を掲載。ネズミが当時の印象的な記憶の一つだったことを取り上げた。

これらはネズミが存在したことの根拠にはなる。しかし、実際の生息数を示す統計ではない。写真や目撃証言から正確な個体数を算出することはできない。

【撤去理由】九龍城砦はなぜ取り壊された?1987年の香港政府の決定

九龍城砦が取り壊された理由は、ネズミの大量発生だけではない。背景には、長年続いていた中国と英国の管轄権をめぐる問題、建物の安全性、衛生環境、住民の生活改善という複数の課題があった。

英国と中国の管轄権が曖昧だった歴史

九龍城砦は、1847年に清朝政府によって軍事拠点として建設された。もともとは沿岸防衛のための要塞で、行政機関や兵舎などが置かれていた。

1898年、英国は清朝との条約によって新界地域を99年間租借することになったが、九龍城砦の扱いは特殊だった。中国側の主権に関する主張が残り、英国側との間で管轄権をめぐる問題が長く続いた。

1899年には英国軍が進出し、清朝の役人や兵士が去った。その後も政治的な事情から、十分な行政管理が行われにくい状態が続いた。

第二次世界大戦後、中国大陸からの移住者や難民が増え、無許可の建物が次々に建設された。こうして、通常の都市計画や建築規制が十分に適用されない特殊な居住地区が形成されていった。

ただし、九龍城砦が完全に行政から切り離されていたわけではない。2018年の研究論文によると、近隣の啓徳空港の航空安全上の理由から建物の高さには制約が設けられ、郵便サービスなども提供されていた。単純な「無政府状態」という説明だけでは歴史を正確に理解できない。(出典:香港政府古物古蹟辦事處、Land Use Policy、2018年)

1984年の中英共同声明が転機に

大きな転換点となったのは、1984年12月19日に中国と英国が署名した中英共同声明だった。

この声明によって、1997年7月1日に香港の主権が中国へ返還されることが決まった。長年の政治的な懸案だった九龍城砦の扱いについても、両政府が解決に向けて動きやすくなった。

1987年1月14日、香港政府は九龍城砦の撤去と跡地の公園化を発表した。

香港政府の1987年版年報によると、撤去事業を担当する特別部門が同年初めに設置され、事前調査によって約3万2,000人の住民と約1,050の商業事業者が確認された。撤去には約3年を見込み、跡地を公共公園として整備する計画だった。(出典:Hong Kong Yearbook 1987)

取り壊しの主な理由は4つ

  • 衛生環境の改善:開放排水路、下水、漏水、ごみなどの問題があり、健康的な居住環境を確保する必要があった。
  • 建物の安全性:無許可の増築や老朽化した建築物が密集し、通常の都市建築とは異なる安全管理上の問題を抱えていた。
  • 行政・法制度の整理:中国と英国の間で長年曖昧だった管轄権の問題を解決する必要があった。
  • 住民の生活改善と跡地整備:補償や移転先を用意したうえで住民を移転させ、跡地を公共公園に転換する計画だった。

したがって、九龍城砦の撤去は単なる害獣対策やスラムの一掃ではなく、政治・行政・都市計画・公衆衛生が複雑に関係した大規模事業だった。

【完全年表】1987年の撤去決定から1994年の取り壊し完了まで

九龍城砦の歴史を理解するうえで、特に注意したいのが「住民の立ち退き」と「建物の解体」は別の段階だったという点だ。

1987年に撤去計画が発表されたものの、実際の解体工事が始まったのは1993年である。その間には、住民や事業者との補償交渉、移転、残留者への対応など、長い準備期間があった。

九龍城砦の撤去・解体に関する時系列一覧

時期 出来事 確認できる内容
1984年12月19日 中英共同声明 1997年の香港返還が決定。
1987年1月14日 撤去計画発表 香港政府が撤去と公園化を発表。
1987年 事前調査 約3万2,000人と約1,050の商業事業者を確認。
1991年11月 立ち退きの本格化 補償交渉に応じない住民への退去措置が進む。
1992年7月 住民の撤去完了 約2万8,000人と約900事業者が移転。
1992年11月 解体契約 約4,200万香港ドルの解体契約を締結。
1993年3月23日 解体開始 重機と解体用の鉄球による取り壊しが始まる。
1994年4月 解体完了 九龍城砦の建物撤去が完了。
1995年12月22日 公園開園 九龍寨城公園が一般公開される。
1996年 歴史遺構の指定 旧衙門と南門の遺構が記念物に指定される。

出典は香港政府の1987年・1992年版年報、香港歴史資料、香港政府古物古蹟辦事處など。(Hong Kong Yearbook 1987・1992、香港志、Antiquities and Monuments Office)

1992年7月、住民の立ち退きが完了

1992年版の香港政府年報には、九龍城砦の住民撤去が同年7月に完了したと記されている。

移転したのは約2万8,000人の住民と約900の商業事業者。支払われた現金補償は約30億香港ドルだった。

ただし、すべての住民が最初から移転に賛成していたわけではない。1991年11月28日付のワシントン・ポストは、政府による立ち退き措置の開始を報じている。当時、約3万3,000人と推定された住民のうち、約2,700人が退去に応じず、行政側と対立していた。

住民の中には、中国政府に対する帰属意識や歴史的な権利を主張し、英国植民地政府に撤去を決める権限はないと訴える人々もいた。移転問題は単純な引っ越しではなく、土地の帰属と生活権をめぐる問題でもあった。(出典:The Washington Post、1991年11月28日、Hong Kong Yearbook 1992)

1993年3月23日、解体用の鉄球が建物を破壊

住民の退去が終わり、いよいよ建物の解体に入ったのが1993年3月23日だ。

当時のサウスチャイナ・モーニング・ポストは、3月24日付の記事で、ブルドーザーが現場に入り、巨大な金属製の鉄球が建物の壁を破壊した様子を報道した。

3月19日付の同紙の記事では、解体工事は6段階に分けて進められ、約12か月での完了を見込んでいたことも伝えられている。

つまり、九龍城砦の取り壊しは一晩で街を爆破するような工事ではなかった。重機を使い、建物を段階的に撤去する計画だったのである。(出典:South China Morning Post、1993年3月19日・24日)

【ネズミの行方】解体時に駆除された?周辺へ逃げた?

この記事の中心的な疑問に戻ろう。九龍城砦の建物が取り壊されたとき、内部にいたネズミはどこへ行ったのか。

現時点で、個体数や移動先を示す信頼できる記録は確認できない。そのため、特定の場所に大量移動した、すべて駆除された、あるいは周辺住民の住宅に一斉に侵入したと断定することはできない。

可能性として考えられる3つの行動

一般的なネズミの生態と、段階的な建物解体という条件から考えると、次のような行動は想定できる。

  • 周辺への移動:建物の解体で隠れ場所を失った個体が、周辺の建物や別の生息場所へ移動する可能性。
  • 解体区域内での移動:工事が段階的に進むため、まだ取り壊されていない建物や別の隙間に移動する可能性。
  • 生息環境の消失:食料や水、隠れ場所が減ることで、その区域にとどまれなくなる可能性。

ただし、これらは生態学的に考えられる行動であり、九龍城砦の解体現場で実際に何が起きたかを示す記録ではない。

当時の新聞はネズミの大脱走を報じていたのか

確認できる当時の報道には、ネズミの生息状況、住民の立ち退き、解体用重機の搬入、建物の取り壊しなどが記録されている。

一方、1993年3月の解体開始を伝えたサウスチャイナ・モーニング・ポストの記事や、1990〜1991年のワシントン・ポストの記事には、ネズミが街から大量に逃げ出したという報告はない。

また、香港政府の1992年版年報には、住民の撤去、補償金、解体契約、保存対象となる文化財について具体的な記録があるが、ネズミの一斉脱出を示す数字は掲載されていない。

ここで注意したいのは、報道がないことは、個々のネズミが移動しなかったことの証明にはならないという点だ。解体に伴う局所的な移動は十分に考えられるものの、街全体からネズミが一斉に脱出したという大規模な出来事は、確認された歴史的事実とは区別する必要がある。

解体工事は周辺環境にも影響した

九龍城砦の解体工事は約1年間にわたって進められた。1993年12月のサウスチャイナ・モーニング・ポストの記事では、建物の撤去によって生じたがれきの量や、周辺環境への影響も取り上げられている。

また、解体現場には文化財の保護という課題もあった。建物をすべて機械的に撤去するのではなく、旧衙門や歴史的な石碑などを保存するための措置が取られた。

こうした工事の進め方を考えると、解体は単なる建物の破壊ではなく、住民が去った街の土地利用を変更し、歴史的な遺構を残すための都市再整備だったことが分かる。

【跡地の現在】九龍寨城公園はどう変わった?保存された歴史遺構

かつてネズミや無数の配管、暗い路地が存在した九龍城砦。その跡地は現在、香港・九龍城地区にある九龍寨城公園として整備されている。

1994年4月に建物の解体が完了した後、跡地の公園整備が進められ、1995年12月22日に一般公開された。

約3万1,000平方メートルの中国式庭園

香港政府の観光・地域情報サイトによると、九龍寨城公園の面積は約3万1,000平方メートル。清朝初期の江南庭園をイメージした設計で、池、緑地、中国式の東屋などが配置されている。

かつての高密度住宅とは対照的に、現在は落ち着いた景観が広がる公園となった。

園内には、九龍城砦の歴史を伝える展示もあり、往時の街並みや公園建設の過程、発掘された遺物などを知ることができる。(出典:香港政府「Hong Kong Fun in 18 Districts」)

保存された旧衙門と南門の遺構

公園の中で特に重要なのが、旧衙門(旧ヤーメン)と南門の遺構だ。

旧衙門は清朝時代に九龍の行政を担った役所で、3つの建物と2つの中庭を備えた構造を持つ。清朝の役人が去った後も、老人ホームや学校、診療所など、さまざまな用途で使用された歴史がある。

1987年の撤去決定後も、歴史的価値が認められたことから保存され、修復された。

また、建物の解体中には、かつての南門に関係する2枚の石碑が発見された。そこには「南門」と「九龍寨城」の文字が刻まれていた。

香港政府古物古蹟辦事處によると、旧衙門と南門の遺構は1996年に記念物に指定されている。(出典:Antiquities and Monuments Office、香港政府)

2026年現在、かつての九龍城砦を知ることはできる?

2026年現在、九龍城砦の建物群そのものは残っていない。しかし、公園内の展示や保存遺構、当時の写真、住民の証言、建築研究などを通じて、その歴史をたどることができる。

特に、写真家グレッグ・ジラードとイアン・ランボットが記録した写真集『City of Darkness』は、解体前の建物、路地、商店、住民の暮らしを知る重要な資料となっている。

九龍城砦を単に犯罪やネズミの象徴として見るだけでは、そこで暮らした人々の生活は見えてこない。食品工場、商店、診療所、学校、宗教施設などが存在し、住民は厳しい環境の中で独自の生活圏を形成していた。

現在の公園は、かつての街をそのまま再現した施設ではない。歴史の痕跡を保存しながら、異なる用途の公共空間へ転換した場所なのである。

【プロの結論】九龍城砦のネズミ問題から分かる都市環境と歴史の真実

九龍城砦の取り壊しとネズミの関係を調べると、興味深い事実が浮かび上がる。それは、ネズミの存在そのものよりも、ネズミが大量に生息できる環境がどのように形成されたかという問題だ。

ネズミ問題は都市インフラの問題でもあった

ネズミは単純に建物が古いから増えるわけではない。食料、水、隠れ場所、移動経路などの条件が重なることで、生息しやすい環境が生まれる。

九龍城砦では、人口密集、食品製造業、漏水する配管、開放排水路、複雑な建築構造が重なっていた。衛生管理が十分に行き届かない環境が、ネズミの存在を目立たせる背景になったと考えられる。

香港政府の現在の食物環境衛生署も、一般的なネズミ対策では、餌となる食料、隠れ場所、移動経路という生息条件を取り除くことが重要だと説明している。

この観点から見ると、九龍城砦の問題は害獣だけを対象にした駆除では解決しにくい、都市インフラ全体の問題だった。

九龍城砦の歴史を理解するための判断基準

  • 確認できる事実:ネズミが目撃されていたこと、開放排水路や下水の問題、1987年の撤去決定、1993年の解体開始、1994年の完了。
  • 記録が不足している情報:解体時のネズミの総数、駆除された個体数、周辺への移動数。
  • 誇張されやすい情報:ネズミが一斉に街から逃げ出し、周辺地域を埋め尽くしたという話。
  • 歴史的に重要な視点:住民の生活、行政上の問題、都市衛生、建築構造、文化財保存を一体として理解すること。

この4つを区別すると、九龍城砦の歴史を過度に恐怖化することなく理解できる。特に、当時の写真や新聞報道と、後年の都市伝説を混同しないことが大切だ。

九龍城砦の取り壊しとネズミに関するよくある質問(FAQ)

Q1:九龍城砦の取り壊しでネズミが大量に逃げ出したのは本当?

A1:大量に一斉脱出したという事実は確認されていない。当時の新聞にはネズミの目撃情報があるが、1993〜1994年の解体工事で大規模な脱出が起きたという確かな報道や公的統計は見つかっていない。

Q2:九龍城砦には本当に大量のネズミがいた?

A2:ネズミが多数目撃されていたことは事実。1990年のワシントン・ポストは、猫ほどの大きさに見えるネズミが路地を走り回っていたと報じている。ただし、正確な生息数は分かっていない。

Q3:九龍城砦が取り壊されたのは何年?

A3:撤去計画は1987年1月14日に発表され、建物の解体工事は1993年3月23日に始まった。取り壊しは1994年4月に完了している。

Q4:九龍城砦のネズミは解体後どこへ行った?

A4:具体的な移動先や個体数を示す記録は確認されていない。周辺への移動や解体区域内での移動は考えられるが、どの程度起きたかは不明である。

Q5:九龍城砦には下水道がなかったの?

A5:街全体の排水・下水環境が劣悪だったことは記録されている。1986年の行政関係者の証言には、開放排水路や下水、臭気などが登場する。ただし、すべての場所に下水設備が存在しなかったと単純化するのは正確ではない。

Q6:九龍城砦には何人住んでいた?

A6:1987年の香港政府による事前調査では約3万2,000人が確認された。資料によっては約3万3,000人、最盛期には約5万〜6万人という推計もある。調査時期や人口推計の方法によって数字が異なる。

Q7:九龍城砦の跡地は現在どうなっている?

A7:現在は香港の九龍寨城公園になっている。約3万1,000平方メートルの中国式庭園で、旧衙門や南門の石碑など、九龍城砦の歴史を伝える遺構が保存されている。1995年12月22日に一般公開された。

まとめ:九龍城砦のネズミ大量脱出説は事実として確認されていない

九龍城砦の取り壊しでネズミが大量に逃げ出したという話は、今も人々の興味を引く。しかし、当時の新聞報道や香港政府の年報、歴史資料を確認すると、明らかになっているのはネズミの生息と劣悪な衛生環境であり、解体時の一斉脱出ではない。

1987年1月14日に撤去が決まり、1992年7月には住民の立ち退きが完了。1993年3月23日に解体工事が始まり、1994年4月には建物の取り壊しが終わった。そして1995年12月、跡地には九龍寨城公園が開園した。

この歴史から見えてくるのは、ネズミの大量発生を生んだ背景には、複雑な行政問題、過密な建築、排水設備の不備、生活環境の悪化があったということだ。

九龍城砦はネズミの街だったという一面だけでは語り尽くせない。そこには数万人の人々の暮らしがあり、商店や工場、地域社会が存在していた。現在の九龍寨城公園に残された遺構や記録は、かつての街がどのような場所だったのかを伝えている。

大量脱出説の真相を考えるうえでも、センセーショナルな噂だけではなく、1987年の政府資料、1990年代の新聞報道、当時の写真、住民の証言を照らし合わせることが、九龍城砦の歴史を正しく理解する手掛かりになる。

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穂積 美咲

映画・ドラマ担当として5年以上の取材経験。cinema領域の公式発表・配信元の告知を一次情報として確認し、確認できない情報は記事に含めない方針です。

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