元阪神タイガースの投手として活躍した上田二朗氏は、1973年にシーズン22勝を挙げたアンダースローの名投手です。1969年のドラフト1位で阪神に入団し、南海ホークスへの移籍も経験。プロ通算361試合に登板し、92勝101敗3セーブという実績を残しました。
一方、上田氏には「上田二朗」「上田次郎」「上田次朗」という複数の登録名が存在します。なぜ名前を何度も変更したのか、南海への移籍はどのような経緯だったのか、そして2026年現在は何をしているのでしょうか。本人のインタビュー、NPB公式記録、近年の野球報道をもとに、プロフィールから現役時代、引退後の活動まで詳しく整理します。
【プロフィール】上田二朗とは何者?和歌山県出身のドラフト1位投手
上田二朗氏は、1970年代の阪神タイガースを支えた右投げのアンダースロー投手です。現役時代は先発とリリーフの両方をこなし、特に1973年の22勝はキャリアを代表する記録として知られています。
選手としての実績だけでなく、引退後も阪神に長く在籍し、投手コーチや球団フロントとして組織を支えました。2026年現在も評論家として活動しており、阪神の歴史を語るうえで欠かせないOBの一人です。
上田二朗の基本プロフィール
日本野球機構(NPB)の選手データや週刊ベースボールONLINEの選手紹介によると、基本情報は次のとおりです。
- 名前:上田二朗(うえだ・じろう)
- 生年月日:1947年7月6日
- 年齢:79歳(2026年10月現在)
- 出身地:和歌山県田辺市
- 身長:176cm
- 体重:80kg
- 投打:右投右打
- 出身高校:和歌山県立南部高校
- 出身大学:東海大学
- ドラフト:1969年阪神タイガース1位指名
- ポジション:投手
- 主な活動:野球評論家・解説者
生まれ育ったのは和歌山県田辺市です。地元の南部高校から東海大学へ進学し、大学野球で実績を積み重ねた後、プロの世界へ進みました。
特筆すべきなのは、大学時代から高い評価を受けていたことです。東海大学の野球部史料にも、1969年ドラフト1位で阪神に指名された選手として記録されています。
1969年ドラフト1位で阪神タイガースへ
上田氏は1969年のドラフト会議で阪神から1位指名を受け、1970年にプロ入りしました。
当時の阪神は、村山実や江夏豊など、球史に残る投手が在籍していた球団です。そのような環境で上田氏は右のアンダースロー投手として存在感を発揮し、プロ1年目から27試合に登板して9勝を記録しました。
その後も登板を重ね、1973年には22勝を挙げるまでに成長します。ドラフト1位の期待に応え、阪神投手陣の中心的な存在になった選手でした。
【アンダースローの原点】南部高校時代の試練と東海大学での成長
上田二朗氏の代名詞といえば、地面に近い位置から腕を振り抜くアンダースローです。しかし、最初から下手投げだったわけではありません。
2024年4月の週刊ベースボールONLINEのインタビューでは、本人が高校時代の投球フォーム変更について振り返っています。その背景には、野球人生を左右するほどの身体的な試練がありました。
高校時代のけがと病気が転機になった
田辺第三小学校、明洋中学校時代の上田氏はオーバースローの投手でした。球速には自信があったものの、チーム内にもう一人投手がいたため、必ずしもエースという立場ではなかったといいます。
甲子園への憧れから南部高校へ進学しましたが、高校1年春にはスライディング練習中に右足の甲を骨折。さらに同年冬には髄膜炎を患い、数カ月にわたる療養を余儀なくされました。
野球を続けられるかどうかも分からない状況を乗り越え、2年生の夏過ぎに練習へ復帰。その際、当時の山崎繁雄監督から提案されたのがアンダースローへの転向でした。
監督から下手投げを勧められたものの、最初は簡単に習得できたわけではありません。従来とは異なる筋肉の使い方に苦労し、脇腹に激しい痛みを感じながら投球フォームを身につけていきました。
この高校時代の経験が、後のプロ野球人生を決定づけたのです。
杉浦忠をモデルにした投球スタイル
上田氏がアンダースローを確立するうえで参考にした投手として挙げているのが、南海ホークスなどで活躍した杉浦忠氏です。
週刊ベースボールONLINEのインタビューのタイトルにも「勝てるアンダースロー」という言葉が登場しています。
アンダースローは、単に低い位置からボールを投げるだけの技術ではありません。打者から見たボールの出どころや軌道を変え、タイミングを外すことが重要になります。
上田氏の場合、高校時代に一から身につけたフォームを大学で磨き上げたことが、プロでの成功につながりました。
東海大学で実力を伸ばし、プロ入りを実現
南部高校卒業後は東海大学に進学。大学野球で実績を重ね、1969年にはドラフト1位で阪神に指名されました。
東海大学の学園史資料センターが公開する野球関連資料にも、上田次朗の名前、生年月日、1969年の阪神1位指名、南部高校から東海大学への進学歴が掲載されています。
高校時代の投法変更という偶然の転機を、自分の武器へと変えたことが、上田氏の選手としての大きな特徴です。
【阪神タイガース時代】1973年の22勝と通算92勝の実績を検証
上田二朗氏の野球人生で最も輝いた時期は、やはり阪神タイガースでプレーした1970年代です。
なかでも1973年は、投手としての能力を存分に発揮したシーズンでした。NPB公式の年度別成績を見ると、22勝14敗、防御率2.23という優れた数字が残っています。
1973年は46試合に登板して22勝
1973年の上田氏は、先発だけでなくリリーフでも登板するなど、チームのために幅広い役割を担いました。
特に注目したいのは、勝利数だけではありません。
- 登板数:46試合
- 勝利:22勝
- 敗戦:14敗
- 防御率:2.23
- 投球回:287回1/3
- 完投:20試合
- 完封勝利:5試合
- 奪三振:169
287回1/3という投球回数は、当時の先発投手に求められた稼働量を物語っています。20完投、5完封という数字からも、単に短いイニングを任される投手ではなかったことが分かります。
また、左腕の江夏豊氏とともに阪神投手陣を支えたことも、当時の上田氏を語るうえで要点です。
1976年も12勝を記録した実力派
22勝を記録した翌年の1974年は7勝13敗、防御率4.02と苦しい結果になりました。しかし、上田氏はその後も投手として活躍を続けています。
特に1976年は12勝9敗を記録。本人も2025年のFull-Countの連載インタビューで、この年は1973年の22勝を挙げたシーズンよりも球に力があり、コンディションもよかったと振り返っています。
勝利数だけを見れば1973年が突出していますが、選手自身の感覚では1976年も非常に充実したシーズンだったのです。
通算92勝はどれほどの実績なのか
NPB公式記録によると、上田氏のプロ通算投手成績は次のとおりです。
- 登板:361試合
- 勝利:92勝
- 敗戦:101敗
- セーブ:3
- 通算防御率:3.95
- 完投:61試合
- 完封:13試合
- 投球回:1646回2/3
通算92勝という数字は、阪神と南海の両球団で投げ続けた13年間の積み重ねです。
なお、1972年5月9日の大洋戦では、試合途中の1回無死一、三塁という厳しい状況から登板し、救援完封勝利を記録しました。日刊スポーツの2011年の退団報道では、この記録が史上初のものとして紹介されています。
このエピソードは、上田氏が先発専門ではなく、救援でも重要な役割を担える投手だったことを示しています。
【南海ホークス移籍の真相】阪神を離れた理由と1982年の復帰
阪神で22勝を記録した上田氏ですが、現役生活の後半には出場機会が減少します。その結果、1979年オフに南海ホークスへの移籍が決まりました。
移籍の背景を理解するには、当時の阪神の監督交代とチーム内での起用状況を確認する必要があります。
1979年は登板機会が大幅に減少
1979年、阪神ではドン・ブレイザー監督体制となり、上田氏の起用状況は大きく変化しました。
それまで先発として実績を積んできた上田氏は、この年はすべてリリーフで15試合に登板。0勝0敗、防御率4.05という成績にとどまりました。
本人はFull-Countの2025年4月7日公開のインタビューで、同時期に登板機会が減っていた安仁屋宗八氏、谷村智啓氏らと投手コーチに状況を尋ねに行ったことも明かしています。
しかし、状況は改善せず、2軍へ降格。その後、1軍に呼ばれることはありませんでした。
1979年オフに金銭トレードで南海へ
阪神での登板機会が減った上田氏は、1979年オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍します。
新天地で迎えた1980年は30試合に登板し、6勝6敗1セーブを記録しました。防御率は5.18でしたが、阪神で苦しんだ直近2年間と比較すると、登板機会を取り戻したシーズンでした。
しかし、1981年には南海にもブレイザー監督が就任します。阪神時代に続き、再び同じ監督のもとでプレーすることになったのです。
上田氏はこの巡り合わせについて、本人インタビューで複雑な思いを語っています。1981年は24試合に登板して5勝9敗、防御率4.90でした。
1982年に阪神へ復帰し、現役引退
1982年、南海での上田氏は登板機会を得られず、シーズン途中の6月に阪神へ復帰します。
この復帰は本人の説明によると、両球団の話し合いによって決まったものでした。
阪神復帰後は8試合に登板して1勝1敗。最終的に1982年シーズンをもって現役を引退しました。
その後は安藤統男監督から1軍投手コーチ補佐への就任を要請され、指導者として新たな道を歩み始めます。
南海移籍は単純な戦力外という説明だけでは捉えきれません。監督交代による起用方針の変化、選手としての役割の変化、球団間の交渉が重なったキャリアの転換点でした。
【登録名変更の理由と真相】上田二朗・上田次郎・上田次朗は同一人物
上田二朗氏を調べる際に、多くの人が疑問に感じるのが名前の違いです。
プロ野球の記録や新聞記事では「上田二朗」「上田次郎」「上田次朗」という表記が登場します。これらは別々の選手ではなく、同一人物である上田氏の登録名の変遷に関係しています。
登録名を変更した理由は家相と年回り
2025年4月6日公開のFull-Countによる本人インタビューでは、登録名変更の理由が詳しく紹介されました。
上田氏は1976年まで「上田二朗」を使用していましたが、1977年に「上田次郎」へ変更しました。
そのきっかけは、ある家相の先生からの助言でした。1977年の年回りに合う名前として「次郎」を勧められたことが変更の理由だったと本人が説明しています。
「この年(1977年)の年回りだったら、これがいいですよ」
本人は戸籍上の名前が「二朗」であることにも触れ、勧められなければ変更していなかったという趣旨の説明をしています。
つまり、成績不振への対策や球団側の強制ではなく、運勢や縁起を意識した本人の判断が背景にあったのです。
登録名の変遷を時系列で整理
本人取材を含むFull-Countの報道をもとに整理すると、主な登録名の変遷は次のようになります。
| 時期 | 登録名 | 変更の背景・備考 |
|---|---|---|
| 1976年まで | 上田二朗 | 戸籍上の名前に基づく表記 |
| 1977~1978年 | 上田次郎 | 家相の先生から年回りに合う名前として勧められ変更 |
| 1979年 | 上田二朗 | 本人取材による報道では元の表記に戻したと説明 |
| 1980年以降 | 上田次朗 | 再び年回りを考慮して変更。南海時代以降の登録名 |
なお、NPB公式の選手データでは、現在「上田次朗」という表記でプロフィールと年度別成績が掲載されています。年度ごとの登録名変更をすべて表示する形式ではないため、選手名の変遷を調べる際には本人のインタビュー記事も参考になります。
「上田二郎」という表記も見かける理由
検索すると「上田二郎」という表記も見つかります。これは名前の漢字が時期や資料によって異なることに加え、過去の写真説明や選手名簿などで異なる表記が使用されているためです。
重要なのは、読み方が同じ「うえだ・じろう」であり、阪神・南海で活躍した同一の投手を指しているという点です。
特に「二朗」と「次朗」は一文字違いですが、本人の登録名変更を理解するうえでは区別しておく必要があります。
また、登録名を変えたからといって、その年の成績が必ず向上したわけではありません。1977年は8勝9敗、1978年は3勝10敗でした。名前の変更と競技成績を直接結びつけるのは適切ではなく、本人が語った年回りや縁起への意識を中心に理解するのが自然です。
【2026年現在】野球評論家としての活動と阪神への関わり
上田二朗氏は現役引退後も、野球界から離れることなく活動を続けています。
特に阪神タイガースとの関係は長く、選手、指導者、球団フロントという複数の立場でチームを支えてきました。
引退後は阪神の投手コーチとして後進を育成
1982年の引退後、上田氏は1983年に阪神の1軍投手コーチ補佐へ就任しました。
その後、2軍投手コーチや1軍投手コーチ、2軍育成コーチなどを経験。村山実監督、中村勝広監督らの時代にもチームの指導に携わりました。
2025年のFull-Countによる連載インタビューでは、コーチ時代の経験や、選手との接し方についても語っています。
上田氏が振り返ったのは、コーチが特定の選手だけを見るのではなく、チーム全体を見渡して選手を支える必要性でした。
1995年からは阪神のフロントへ
1994年限りでコーチを退任した上田氏は、1995年から球団フロントに入りました。
選手の育成や現場での指導とは異なり、球団運営や編成に関わる立場で阪神を支えることになります。
日刊スポーツの2011年12月29日付報道によると、上田氏は選手、コーチ、フロントとして阪神に40年近く在籍していました。
2012年1月1日付で阪神球団を退団。退団時には長年所属した球団への感謝を述べ、野球界のOBとして後輩や子どもたちに伝えていきたいという思いも語っていました。
2026年現在はサンケイスポーツ専属評論家
2026年現在、上田氏は野球評論家として活動しています。
サンケイスポーツでは阪神戦を中心とした評論を担当。2026年9月18日付のサンスポ関西には「上田二朗 サブマリン斬り」という評論記事が掲載されています。
同記事では、阪神の大竹耕太郎投手の投球について、球速だけに頼らない投球術という視点から分析していました。
これは、現役時代にアンダースローで打者と対峙してきた上田氏ならではの視点です。
また、2025年のFull-Countのインタビューでは、阪神の藤川球児監督やコーチ陣、フロントへの期待についても発言しています。単に古巣を称賛するだけではなく、経験を踏まえて改善点を指摘する評論家としての姿勢がうかがえます。
現役時代の投球経験だけでなく、指導者とフロントの両方を経験したことが、現在の評論活動にも生かされていると考えられます。
【プロの結論】上田二朗の野球人生から分かる3つの評価ポイント
上田二朗氏のキャリアを振り返ると、単に22勝を挙げた名投手というだけでは説明できない特徴が見えてきます。
1. アンダースローを自分の武器に変えた適応力
上田氏は高校時代にけがや病気を経験し、投球フォームを変更しました。最初からアンダースローの才能を持っていたというより、環境の変化に対応しながら技術を身につけた選手です。
投球フォームを変えることは、身体の使い方や感覚を一から作り直すことでもあります。その経験がプロでの独自性につながりました。
2. 先発と救援の両方を担った貢献度
1973年の22勝だけでなく、46登板、20完投、5完封という数字は、上田氏が幅広い役割を担っていたことを示しています。
さらに1972年の救援完封勝利など、先発以外の場面でも結果を残しました。通算92勝という記録は、複数の役割をこなしてきた選手生活の積み重ねです。
3. 選手・コーチ・フロント・評論家という経験の幅
上田氏は現役引退後、阪神のコーチとして選手を指導し、その後は球団フロントとしてチーム運営にも関わりました。
こうした経験は、現在の評論活動においても強みになります。マウンド上の投手心理だけでなく、指導者の立場や球団組織の事情も理解したうえで野球を分析できるからです。
上田氏を評価する際には、22勝という数字だけに注目するのではなく、13年間の現役生活と、その後の長い阪神での活動まで含めて考えることが大切です。
【よくある質問】上田二朗に関するFAQ
Q1:上田二朗の本名は何ですか?
A1:本人のインタビューによると、戸籍上の名前は「上田二朗」です。登録名を「上田次郎」「上田次朗」などに変更した時期があり、NPB公式では「上田次朗」の表記が使用されています。
Q2:上田二朗は1973年に何勝しましたか?
A2:1973年に22勝14敗を記録しました。防御率は2.23、投球回は287回1/3で、20完投、5完封も記録しています。
Q3:上田二朗の通算成績は?
A3:NPB公式記録では361試合に登板し、92勝101敗3セーブ、防御率3.95です。阪神と南海の両球団でプレーしました。
Q4:上田二朗が登録名を変更した理由は何ですか?
A4:家相の先生から、その年の年回りに合う名前を勧められたことが理由です。本人は縁起や年回りを意識して変更したと説明しています。
Q5:上田二朗が南海ホークスに移籍したのはなぜですか?
A5:1979年に阪神での登板機会が大幅に減少したことが背景にあります。同年オフに金銭トレードで南海へ移籍し、1982年途中に阪神へ復帰しました。
Q6:上田二朗は2026年現在何をしていますか?
A6:2026年現在は野球評論家として活動しています。サンケイスポーツ専属評論家として阪神戦などの分析や評論を担当しており、2026年9月にも評論記事が掲載されています。
まとめ:上田二朗は阪神の歴史を支えた通算92勝のアンダースロー投手
上田二朗氏は、和歌山県田辺市出身で、南部高校、東海大学を経て1969年ドラフト1位で阪神に入団した元プロ野球投手です。
高校時代のけがや病気を乗り越え、アンダースローに転向。1973年には22勝を挙げ、プロ通算92勝という実績を残しました。
1979年オフには金銭トレードで南海へ移籍し、1982年途中に阪神へ復帰。同年限りで現役を引退しています。
また、「上田二朗」「上田次郎」「上田次朗」という登録名の変更には、家相の先生から勧められた年回りや縁起が関係していました。単なる表記ミスや別人との混同ではありません。
引退後も阪神のコーチやフロントとして長く球団に貢献し、2026年現在は野球評論家として活動を継続しています。
上田二朗氏の魅力は、1973年の22勝という記録だけではありません。投球フォームの転換、阪神と南海での経験、指導者や球団フロントとしての歩みまで含めて見ることで、昭和のプロ野球を支えた一人の投手の実像が浮かび上がります。
今後も評論家として発信する投球論や阪神への提言は、長年にわたって野球の現場を経験してきたOBならではの視点として注目されます。
主な参照資料
- 日本野球機構(NPB)公式・個人年度別成績
- Full-Count「球界群像 上田二朗」2025年連載
- 週刊ベースボールONLINE・上田二朗本人インタビュー(2024年)
- 日刊スポーツ・2011年12月29日付退団報道
- 東海大学学園史資料センター
- サンケイスポーツ・2026年9月18日付評論記事