- 成立: 1918年9月29日、米騒動を受けた寺内正毅内閣の退陣後に誕生した。 政権の特徴: 立憲政友会を中心とし、外務・陸軍・海軍の3大臣を除いて党員で構成された。 政策: 教育、交通、産業、国防の充実を掲げる積極政策を推進した。 選挙制度: 1919年に納税資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げたが、普通選挙は実現しなかった。 終焉: 1921年11月4日、東京駅で原敬が暗殺され、11月13日に内閣は総辞職した。
【原敬内閣とは何か】米騒動と寺内正毅内閣の退陣が生んだ政権

米騒動によって政権交代が現実に
原敬内閣の成立を理解するには、まず1918年の米騒動を押さえる必要があります。
第一次世界大戦中、日本では戦争景気や物価上昇を背景に米価が高騰していました。加えて、シベリア出兵を見越した米穀商や地主による思惑買いも米価上昇に影響しました。
1918年7月、富山県で始まった米騒動は、新聞報道を通じて全国へ広がります。8月には神戸などでも大規模な騒動が発生し、鈴木商店などが襲撃される事態となりました。
寺内正毅内閣は軍隊の出動などによって事態の収拾を図りましたが、国民の不満は強く、政権への批判も拡大しました。
寺内首相は以前から健康上の問題を抱えており、米騒動の責任問題も重なって、1918年9月21日に内閣総辞職に至ります。
国立国会図書館の展示「史料にみる日本の近代」では、田健治郎の日記などを通じて、米騒動の拡大と寺内内閣の対応が紹介されています。
なぜ後継首相に原敬が選ばれたのか
寺内内閣の退陣後、次の首相を誰にするかが政治課題となりました。
当時、首相の選定には元老と呼ばれる有力政治家の意向が大きく影響していました。政党内閣の成立を避けたい山県有朋は、西園寺公望の再登板を考えていました。
しかし、西園寺は健康上の不安などを理由に就任を辞退します。
そこで候補となったのが、立憲政友会総裁の原敬でした。
原はすでに政友会を率いる実力者であり、内務大臣などを経験した政治家です。政党勢力をまとめる能力を持ち、元老や官僚との関係にも配慮できる人物として、首相候補に浮上しました。
こうして原に組閣の大命が下り、9月29日に新内閣が成立します。
この成立過程で重要なのは、米騒動による社会不安だけでなく、元老による首相選定と政党勢力の成長が重なったことです。
原内閣は、単なる内閣の交代ではなく、政党が政権運営の中心を担う政治への転換を象徴する出来事でした。
「平民宰相」と呼ばれた理由
原敬は1856年、現在の岩手県にあたる地域に生まれました。
父は南部藩士で、原自身は苦学して司法省法学校に入学しています。その後、新聞記者を経て外務省に入り、外務次官などを歴任しました。
官界を離れた後は立憲政友会に参加し、1902年に衆議院議員へ初当選。1914年には同党の第3代総裁に就任しています。
原が「平民宰相」と呼ばれた最大の理由は、爵位を持たない立場で首相になったことです。
加えて、原は衆議院に議席を持つ初の首相でもありました。
ただし、「平民」という呼称は、原が特別な民主主義改革を実現したという意味ではありません。身分制度や政治参加の制約が残る時代に、爵位を持たない政党政治家が首相に就いたという歴史的な意味を持っています。
【原敬内閣の期間と閣僚名簿】立憲政友会を中心とした政権の実態
原敬内閣はいつからいつまで続いた?
原敬内閣の成立日は1918年9月29日です。
終焉については、原本人の首相在職期間と内閣の総辞職日を区別する必要があります。
| 項目 | 日付・内容 |
|---|---|
| 内閣成立 | 1918年9月29日 |
| 原敬の首相就任 | 1918年9月29日 |
| 原敬暗殺 | 1921年11月4日 |
| 原敬の首相在職終了 | 1921年11月4日 |
| 内田康哉の首相臨時兼任 | 1921年11月4日から |
| 原内閣の総辞職 | 1921年11月13日 |
| 原敬の首相在職日数 | 1,133日 |
首相官邸の歴代内閣資料では、原の在職期間は1918年9月29日から1921年11月4日までの1,133日とされています。
一方、内閣そのものは原の死後も直ちに消滅したわけではなく、内田康哉が首相を臨時兼任し、11月13日に総辞職しました。
このため、資料によって内閣の期間が1921年11月4日まで、あるいは11月13日までと記載されることがあります。
原敬内閣の閣僚名簿
原内閣の大きな特徴は、立憲政友会を中心に閣僚を構成したことです。
外務・陸軍・海軍の3大臣を除き、基本的に政友会員が閣僚を占めました。
主な閣僚と在任中の変更は次のとおりです。
出典:首相官邸「歴代内閣・原敬内閣閣僚名簿」。在任中の交代を含む。
なぜ立憲政友会中心の内閣が重要だったのか
それまでの日本政治では、藩閥や元老、官僚などの影響力が強く、政党は必ずしも政府の中心的な担い手ではありませんでした。
原内閣では、政友会の政治家が主要な行政分野を担当しました。
これにより、政党が選挙で得た議席を背景に、政策を立案し、行政を運営する仕組みが強化されました。
ただし、外務・陸軍・海軍の大臣には政党外の人物が就任しています。
これは、軍部や外交官僚、元老などの既存勢力との調整が不可欠だったことを示しています。
つまり、原内閣は政党政治の大きな前進である一方、既存の権力構造から完全に独立した政権ではありませんでした。
【原敬内閣の政策】四大政綱と積極政策の成果・課題
原敬内閣の国内政策を理解するうえで欠かせないのが、立憲政友会が掲げていた「四大政綱」です。
原は政権成立後、この方針をもとに積極政策を推進しました。
四大政綱の具体的な内容
1.教育施設の改善・充実
教育機関の整備や高等教育の充実を進める方針です。
人材育成を国家の発展につなげる考え方が背景にありました。
2.交通・通信機関の整備
鉄道や道路などの交通網、通信インフラの拡充を目指しました。
特に鉄道は、地方経済の発展、産業活動の活性化、軍事輸送などにも関係する重要な政策分野でした。
1920年5月15日には鉄道省が設置され、鉄道行政の体制が整えられました。
3.産業・通商貿易の振興
国内産業の発展と貿易の拡大を目指す政策です。
第一次世界大戦による好景気を背景に、工業や商業などの発展を国家として支援する姿勢が見られました。
4.国防の充実
陸海軍の体制を整え、国際情勢の変化に対応することを目指しました。
第一次世界大戦後の国際秩序やロシア革命、東アジア情勢などが背景にありました。
これらの四大政綱は、単なる行政改革ではなく、国家の経済力と軍事力を同時に高めようとする政策体系でした。
積極政策の財政負担
原内閣の積極政策には、当然ながら財源が必要でした。
高橋是清が大蔵大臣として財政運営を担い、公共事業や交通インフラ、国防などへの支出を進めました。
その一方、積極政策の財源には公債発行や増税も関係しました。
政策の実行力を高めることと、国家財政を健全に維持することは、必ずしも両立しやすい課題ではありません。
1920年3月には株価暴落が起こり、戦後恐慌が始まります。
第一次世界大戦中の好況を前提とした経済環境は変化し、政府の経済運営にも難しさが増していきました。
1920年7月3日の施政方針演説でも、原は物価問題や財界の動揺に触れ、経済の安定に取り組む姿勢を示しています。
原敬内閣の政策は成功したのか
評価できる点は、政党が主導する政府によって、交通・産業・教育などの政策を体系的に進めたことです。
一方、公共投資の拡大や国防の充実には財政負担が伴い、政友会の勢力拡大を意識した政策運営も批判の対象となりました。
原内閣の積極政策は、日本の近代化を進める原動力であると同時に、財政と政治の両面に課題を残した政策でもあったのです。
【1919年の選挙法改正と普通選挙運動】平民宰相の意外な政治姿勢
原敬内閣の評価を考える際、特に重要なのが選挙制度改革です。
原は選挙権の拡大を進めましたが、すべての国民に選挙権を認める普通選挙には慎重な姿勢を取りました。
1919年5月22日の衆議院議員選挙法改正
当時の衆議院議員選挙では、男性であっても一定額以上の直接国税を納めていることが選挙権の条件でした。
1900年の改正では、その納税資格は直接国税10円以上とされていました。
原内閣は1919年5月22日、衆議院議員選挙法を改正します。
主な変更点は次のとおりです。
- 納税資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げる。
- 満25歳以上の男性を対象とする。
- 選挙制度を原則として小選挙区制に変更する。
この改正により、選挙権を持つ人の範囲は大幅に拡大しました。
アジア歴史資料センターの年表によると、改正法は大正8年法律第60号として記録されています。
選挙権はどのくらい増えたのか
1920年5月10日には、この改正後の制度による衆議院議員総選挙が実施されました。
アジア歴史資料センターの記録によると、当時の有権者数と投票率は次のとおりです。
1920年総選挙の有権者数3,069,148人
投票率86.73%
有権者の拡大は、政党政治の基盤を広げる変化でした。
しかし、納税資格は残されており、女性にも選挙権は認められていません。
そのため、この改正を普通選挙の実現と説明するのは正確ではありません。
普通選挙運動に対する原敬の姿勢
第一次世界大戦後、日本では政治参加の拡大を求める声が強くなっていました。
1919年3月には、東京の日比谷公園に約5万人が集まり、普通選挙の即時実施を求める動きが起こります。
学生、労働者、知識人などが参加し、新聞などのメディアも普通選挙をめぐる議論を活発化させました。
こうした運動の高まりに対して、原は普通選挙の実施を時期尚早と考えていました。
1920年2月26日、衆議院を解散し、野党が提出した普通選挙法案と対決します。
その後の総選挙で政友会は大きく勝利し、原内閣は政権基盤を強化しました。
ここに、原敬という政治家の二面性が表れています。
爵位を持たない首相として政党政治を前進させた一方で、国民全体への選挙権拡大には慎重だったのです。
1925年の普通選挙法との違い
男子普通選挙が実現するのは、原の死後である1925年です。
加藤高明内閣のもとで衆議院議員選挙法が改正され、納税資格が撤廃されました。
ただし、この1925年の制度でも女性には選挙権が認められていません。
女性参政権が実現するのは、第二次世界大戦後の1945年の選挙法改正を経て、1946年の総選挙からです。
つまり、原内閣の選挙法改正は普通選挙への重要な一歩でしたが、民主的な選挙制度の完成ではありませんでした。
【シベリア出兵・対華政策とワシントン会議】原敬内閣の外交を検証
原敬内閣は国内の政党政治だけでなく、第一次世界大戦後の国際秩序にも対応しなければなりませんでした。
特に重要なのが、シベリア出兵、中国への政策、パリ講和会議、そしてワシントン会議につながる外交課題です。
シベリア出兵は原内閣が始めたのか
シベリア出兵は、1918年8月2日に寺内正毅内閣が宣言した政策です。
ロシア革命によって成立したソビエト政権に対し、連合国はシベリア方面への軍事介入を進めていました。
日本もアメリカなどとともに出兵しました。
したがって、シベリア出兵を原敬内閣が開始したと説明するのは誤りです。
原内閣は、寺内内閣から引き継いだ出兵政策の処理を担いました。
1920年3月から5月にかけては、ニコラエフスク(尼港)で日本人を含む多数の住民が犠牲となる尼港事件が発生します。
この事件は日本国内で大きな衝撃を与え、対ロシア政策の難しさを浮き彫りにしました。
原は1920年7月3日の施政方針演説で尼港事件に触れるとともに、シベリアについては必要性の認められない地域から撤兵する方針を説明しています。
ただし、これによって出兵が直ちに終了したわけではありません。
日本は北樺太の保障占領なども進めており、軍事介入をめぐる問題はその後も続きました。
対華政策と山東問題
中国に対する政策も原内閣の重要な外交課題でした。
日本は第一次世界大戦中から中国に対する権益拡大を進めており、原内閣もその基本的な枠組みを引き継いでいました。
1918年10月29日には、対中借款に関する閣議決定が行われています。
その後、日本・イギリス・アメリカ・フランスによる四国財団が成立し、中国への借款問題をめぐる調整が進みました。
しかし、山東問題は解決していませんでした。
山東省では、第一次世界大戦中に日本がドイツの権益を引き継いだことをめぐり、中国側の反発が強まっていました。
原は1920年7月3日の施政方針演説でも、中国政府が日本側の提議に応じていないとして、山東問題が未解決であることを説明しています。
この問題は、中国の民族意識の高まりや反日運動とも結び付き、東アジア外交の大きな火種となりました。
パリ講和会議と国際連盟への参加
原内閣の外交を考えるうえでは、第一次世界大戦後の国際秩序形成も重要です。
1919年1月、パリ講和会議が開催され、日本は五大国の一員として参加しました。
日本側は主に次の要求を掲げました。
- 赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の割譲。
- 山東省におけるドイツの権益の移転。
- 国際連盟規約への人種差別撤廃条項の盛り込み。
会議ではヴェルサイユ条約が1919年6月28日に調印され、日本は旧ドイツ領南洋諸島の委任統治などの権益を得ました。
一方、人種差別撤廃提案は国際連盟規約に採用されませんでした。
また、国際連盟は1920年1月10日に発足し、日本も主要加盟国の一つとなります。
ワシントン会議と原敬内閣の関係
ワシントン会議は、1921年11月12日から1922年2月6日までアメリカのワシントンで開催された国際会議です。
主な議題は、海軍軍備の制限とアジア太平洋地域の国際関係でした。
ここで重要なのは、会議が始まった時点で原敬はすでに暗殺されていたという事実です。
原内閣は会議に向けた準備を進めており、1921年10月13日付の外交史料には、ワシントン会議の日本全権委員に対する政府訓令が残されています。
しかし、原が11月4日に暗殺され、会議はその8日後に開幕しました。
実際の日本代表団を率いたのは、海軍大臣の経験を持つ加藤友三郎らです。中国問題では幣原喜重郎も全権として交渉に関与しました。
会議では、次のような重要な国際的取り決めが成立しました。
| 条約 | 主な内容 |
|---|---|
| 五カ国条約 | 主力艦の保有比率を米英日などで制限 |
| 四カ国条約 | 太平洋地域の権益と現状維持に関する協議 |
| 九カ国条約 | 中国の主権・領土保全、門戸開放、機会均等 |
特に五カ国条約では、米英日間の主力艦保有比率が5対5対3と定められました。
これらの条約によって形成された国際秩序は「ワシントン体制」と呼ばれています。
原内閣が会議そのものを主導したとするのは正確ではありません。しかし、会議に向けた政府方針の策定を担った点で、原政権期の外交政策と深く結び付いています。
【原敬暗殺と東京駅事件】1921年11月4日に何が起きたのか
原敬暗殺事件の発生
1921年11月4日、原敬は東京駅で暗殺されました。
当時、原は京都で開催される立憲政友会の近畿大会に出席するため、東京駅にいました。
午後7時25分ごろ、原は中岡艮一によって襲撃され、死亡します。
中岡は当時19歳で、大塚駅の転轍手、つまり鉄道のポイントを切り替える作業員でした。
国立国会図書館憲政資料室が公開する阪谷芳郎の日記には、事件の報告を受けた当日の様子が記録されています。
その記述からは、原の死が政界にとっていかに重大な事件だったかがうかがえます。
なぜ原敬は暗殺されたのか
事件を考えるうえで重要なのは、犯人と当時の政治状況を区別して理解することです。
国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」では、中岡が政友会の党利党略の追求に憤っていたことが事件の背景として紹介されています。
原は政党政治の中心人物であり、政友会の勢力拡大を主導していました。
その一方で、普通選挙運動への慎重姿勢や政党間の対立、政治と既存権力の関係など、当時の政治には多くの緊張が存在していました。
ただし、暗殺事件の歴史的背景を、単純に一つの政治的争点だけで説明することはできません。
少なくとも、現職の首相が東京駅で殺害されたという事実は、日本の議会政治に大きな衝撃を与えました。
暗殺後、原敬内閣はどうなった?
原の死後、外務大臣だった内田康哉が首相を臨時兼任しました。
その後、立憲政友会では後継総裁の選出が難航しましたが、最終的に高橋是清が後継首班・総裁に選ばれます。
1921年11月13日、高橋内閣が成立しました。
原の死によって、政友会は強力な指導者を失い、党内の結束にも影響が生じました。
国立国会図書館の資料では、高橋内閣が原内閣の政策継続を掲げた一方、その後は内紛によって短命に終わり、政友会も分裂したことが説明されています。
【原敬内閣の評価】平民宰相が残した功績と政党政治の限界
原敬内閣の歴史的評価は、政党政治の前進という側面だけでは語り尽くせません。
その功績と限界を分けて考えることが重要です。
功績1:本格的な政党内閣を実現した
最大の功績は、政党総裁が自らの党を基盤に本格的な内閣を組織したことです。
原は衆議院に議席を持つ政治家として首相に就任しました。
これは、政党が議会の外側から政府を批判するだけでなく、実際に行政を担う存在になったことを意味します。
後の政党政治の発展を考えるうえでも、原内閣の成立は大きな転換点でした。
功績2:交通・産業・教育の整備を推進した
四大政綱に基づく積極政策は、交通網の整備や産業振興、教育の充実を目指しました。
特に交通インフラの整備は、都市と地方の経済活動を結び付け、国家全体の近代化を進める基盤となりました。
原内閣の政策には、国家の成長を支える社会基盤を整備するという明確な方向性がありました。
限界1:普通選挙の実現には消極的だった
「平民宰相」という呼び名から、原が国民全体の政治参加を積極的に推進したと考える人もいます。
しかし、実際には普通選挙運動に対して慎重な姿勢を取っていました。
1919年の選挙法改正によって納税資格は緩和されましたが、財産・納税条件は残り、女性も選挙権を持てませんでした。
この点は、原の政治的功績を評価する際に欠かせない視点です。
限界2:既存の権力構造から自由ではなかった
原内閣は政党政治を前進させましたが、元老や軍部、貴族院などとの調整を必要としていました。
閣僚構成でも外務・陸軍・海軍の3大臣は政友会の党員ではありませんでした。
また、政友会の勢力を拡大するため、地方の利益を重視した政策運営も進められました。
これは政治の安定につながる一方、政党の利益と国家全体の利益をどのように調整するかという問題も生みました。
限界3:植民地政策と外交に残る問題
1919年の三・一独立運動に対して、日本の植民地当局は武力を用いて運動を鎮圧しました。
原内閣はその後、朝鮮総督の武官専任制を改め、文官も任用できる制度へ変更しました。
しかし、これは朝鮮の独立を認めたものではありません。
また、シベリア出兵の継続や中国における権益維持を目指した外交にも、国際的な緊張を生む側面がありました。
政党政治の発展と、対外政策・植民地統治の問題は、分けて評価する必要があります。
【プロの結論】原敬内閣は日本の民主主義を完成させたのか
答えは、完成させてはいません。
しかし、日本の政治制度が藩閥・元老中心の政治から、政党を中心とする政治へ移っていく過程で、決定的な役割を果たした内閣でした。
原敬の本当の歴史的意義は、単に「平民出身の首相」だったことではありません。
政党の指導者が衆議院の議席を持ち、政党の組織力を背景に政府を運営するという政治モデルを実際に成立させたことにあります。
一方、普通選挙への消極姿勢や植民地政策、軍事外交の問題を見れば、政党政治の確立と民主主義の成熟は同じではなかったことも分かります。
原敬内閣は、近代日本の議会政治を前進させた政権であると同時に、その限界も明らかにした政権だったのです。
【原敬内閣に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:原敬内閣は日本初の政党内閣ですか?
A1:正確には、日本初の「本格的政党内閣」と評価されています。外務・陸軍・海軍の3大臣を除き、閣僚の大部分を立憲政友会の党員で構成したことが特徴です。
Q2:原敬内閣は何年から何年まで続きましたか?
A2:1918年9月29日に成立し、1921年11月13日に総辞職しました。原敬本人の首相在職期間は1921年11月4日までで、在職日数は1,133日です。
Q3:原敬内閣は普通選挙を実現しましたか?
A3:実現していません。1919年の選挙法改正で納税資格を直接国税10円以上から3円以上に引き下げましたが、納税要件と男性のみという制限は残りました。男子普通選挙が実現するのは1925年です。
Q4:「平民宰相」とはどういう意味ですか?
A4:爵位を持たない立場で首相に就任したことから付けられた呼び名です。原敬は衆議院議員の議席を持った初の首相でもありました。
Q5:原敬はなぜ暗殺されたのですか?
A5:1921年11月4日、東京駅で中岡艮一によって暗殺されました。国立国会図書館の歴史資料では、犯人が政友会の党利党略に憤っていたことが背景として紹介されています。
Q6:ワシントン会議に原敬は参加しましたか?
A6:原本人は参加していません。会議開幕前の1921年11月4日に暗殺されたためです。ただし、原内閣は会議に向けた政府方針の策定を進めており、外交準備に関与していました。
まとめ:原敬内閣を理解するための要点
原敬内閣は、1918年9月29日に成立した日本初の本格的政党内閣です。米騒動による寺内正毅内閣の退陣を受け、立憲政友会総裁の原敬が首相に就任しました。
在任中は四大政綱に基づく積極政策を推進し、1919年には衆議院議員選挙法を改正して選挙権を拡大しました。一方、普通選挙には慎重であり、シベリア出兵や中国政策、植民地統治にも多くの課題を抱えていました。
1921年11月4日の東京駅での暗殺は、政党政治の歴史に大きな衝撃を与えました。原内閣は同月13日に総辞職し、その後の日本政治は新たな局面に入ります。
2026年の視点から原敬内閣を振り返ると、最も重要なのは、政党政治の前進と民主主義の限界が同時に存在していたことです。原敬は日本の議会政治を大きく変えた政治家でしたが、その政権は民主主義の完成形ではありませんでした。この功績と限界の両方を理解することが、大正デモクラシーと近代日本政治を正確に読み解く鍵になります。