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片岡仁左衛門事件の真相は?食べ物の恨み説と詫び状、金銭目的説を2026年検証

真壁 拓也 真壁 拓也 • 更新: • 公開: • 読了約 22 分
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片岡仁左衛門事件(十二代目片岡仁左衛門一家殺害事件)は、1946年(昭和21年)3月16日、歌舞伎界の名優・十二代目片岡仁左衛門の自宅で一家と住み込みの関係者、合わせて5人が殺害された戦後昭和の重大事件です。逮捕された同居人の飯田利明は、当初、配給米や食事をめぐる不満を犯行動機として供述しました。そのため、事件は長く「食べ物の恨みによる一家殺害」として語り継がれてきました。

しかし、事件から77年後の2023年、生き残った娘の片岡照江さんが週刊女性PRIMEの取材に応じ、従来の説明を覆す証言を公表します。獄中から届いた飯田の詫び状には、食べ物の恨みという供述は減刑を期待した嘘だったと記されていたといいます。照江さんが語った本当の動機は金銭目的でした。2026年には関連書籍の文庫化と再報道もあり、事件への関心が改めて高まっています。

【事件の概要】1946年3月16日、十二代目片岡仁左衛門一家5人に何が起きたのか

片岡仁左衛門事件

事件が起きたのは、終戦からわずか7か月ほどしか経過していない1946年3月16日です。

現場は東京都渋谷区千駄ヶ谷にあった十二代目片岡仁左衛門の自宅。事件が発覚したのは同日午前11時ごろでした。登志子夫人の母親が訪問したところ、戸が閉ざされていたため、裏手から室内に入り、5人の遺体を発見したと当時の新聞報道を引用した事件史記事は伝えています。

犠牲になった5人の人物

亡くなったのは、片岡家の家族3人と、住み込みで働いていた2人です。

  • 十二代目片岡仁左衛門:歌舞伎界の名優。本名は片岡東吉。
  • 登志子夫人:当時26歳。
  • 三郎くん:当時2歳の幼児。
  • 岸本まき子さん:当時12歳の子守。飯田利明の実妹。
  • 榊田はるさん:当時69歳の住み込みの女性。

特に注目すべきなのは、子守をしていた岸本まき子さんが、犯人とされた飯田利明の実の妹だったことです。飯田は妹とともに片岡家に身を寄せていた関係者でした。

現場には薪割りに使用する道具が残されており、室内には物色された形跡もあったと報じられています。また、事件直前に払い戻されていた郵便貯金600円がなくなっていたことも、初期捜査で注目されました。

当時の毎日新聞は、5人が殺害された状況と現場の様子を第一報で伝えています。事件は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞などでも大きく報道されました。

十二代目片岡仁左衛門はどのような歌舞伎役者だったのか

事件の被害者となった十二代目片岡仁左衛門は、単に著名人だったというだけではありません。上方歌舞伎を代表する芸歴を持つ役者でした。

歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」によると、本名は片岡東吉。1882年9月9日に東京・浅草で生まれ、1946年3月16日に亡くなっています。享年63です。

屋号は松嶋屋。女形を中心に立役も演じる幅広い芸域を持ち、十五代目市村羽左衛門の相手役としても活躍しました。

1936年1月に十二代目片岡仁左衛門を襲名。1943年には『源平布引滝』の「義賢最期」を復活させ、義賢役で成功を収めました。この演目は後世にも受け継がれています。

最後の舞台は1946年1月の京都・南座でした。舞台人として活動を続けていた名優が、そのわずか2か月後に事件の犠牲になったことは、歌舞伎界にとっても大きな損失でした。

【事件の経緯】飯田利明はなぜ片岡家に住み込み、犯行に至ったのか

飯田利明と片岡家には、事件以前からつながりがありました。

飯田の父親は長年にわたって十二代目片岡仁左衛門の座付き作者を務めていた人物です。座付き作者とは、歌舞伎の上演に関わる脚本や台本などを担当する仕事です。

父親との縁があったことから、飯田は片岡家と関係を持つようになります。加えて、妹のまき子さんも片岡家で子守として働いていました。

飯田利明の戦後の生活と片岡家への出入り

2026年に再紹介された事件史によると、飯田は1923年に東京・浅草で生まれ、商業高校を卒業した後、大阪へ養子に入り、岸本姓から飯田姓になったとされています。

終戦後の1945年9月末、北海道の空知炭鉱から徴用解除となって戻りました。しかし、浅草の実家は空襲で焼失し、妹のまき子さん以外の家族は亡くなっていたといいます。

飯田は父親の仕事上の縁を頼り、片岡家に住み込んで座付き作者見習いとして働くようになりました。

事件発生から裁判までの時系列

事件の経緯を整理すると、次のようになります。

年月日・時期 出来事 内容・確認できる情報
1945年9月末 飯田が北海道から帰還 徴用解除後、戦災で家族を失った状態で東京に戻る。
1945年秋 片岡家に住み込む 父親と十二代目の仕事上の縁から、座付き作者見習いとして働く。
1946年3月16日 一家5人殺害事件が発覚 登志子夫人の母親が自宅を訪れ、5人の遺体を発見する。
1946年3月20日 飯田利明を逮捕 宮城県玉造郡川渡村の川渡温泉で身柄を確保される。
1946年4月2日 東京へ移送 警視庁捜査一課などによる本格的な取り調べが進められる。
1946年11月27日 東京地裁で公判開始 後年の事件史記事が伝える公判開始日。
1947年10月 無期懲役判決 検察側は死刑を求刑したが、無期懲役となる。
事件から数年後 獄中から詫び状 照江さんのもとに飯田から手紙が届いたとされる。
2023年4月 遺族の証言が公表 片岡照江さんが週刊女性PRIMEの取材で動機や詫び状について語る。
2026年4〜5月 関連書籍と再報道 文庫版刊行と文春オンラインによる事件の再紹介。

飯田は事件から2週間後の3月20日、宮城県の川渡温泉で逮捕されました。この場所は、妹のまき子さんが学童疎開していた土地でもあり、飯田自身も以前に訪れたことがあったと報じられています。

逮捕後の取り調べでは犯行を自供し、当初は仁左衛門夫妻から受けた待遇や食事への不満を動機として説明しました。

【最大の謎】食べ物の恨み説は嘘だった?片岡照江の証言と詫び状

片岡仁左衛門事件を理解するうえで、最も重要なのが犯行動機をめぐる食い違いです。

事件直後、飯田は配給米の量や食事の待遇について不満を持っていたと説明しました。この供述が新聞で大きく取り上げられ、事件は「食べ物を十分に与えられなかった同居人が、主人一家に恨みを募らせた」という筋書きで知られるようになりました。

ところが2023年、事件を生き延びた片岡家の娘・照江さんが、この説明は事実と異なると証言したのです。

飯田利明が取り調べで語った食糧問題

当時は日本全体が深刻な食糧不足に直面していました。配給制度のもとでは、米を自由に購入することも難しく、一般家庭でも食事の量を確保することが大きな問題でした。

2026年に再紹介された飯田の供述内容には、次のような不満が記されています。

  • 片岡家の主人一家と住み込みの人間では、食事や炊事の扱いが異なっていた。
  • 配給米の量が少なく、十分な食事を取れなかった。
  • 外食券の送付を約束されていたのに、約束が守られなかった。
  • 食事の減量を告げられ、夫人との対立が深まった。

加えて、当時の新聞は近隣住民の話も掲載し、主人一家と同居人の食事が別だったという情報を伝えていました。

こうした供述や周辺情報は、戦後の食糧難という社会状況とも結び付けられました。事件は個人間の殺人事件にとどまらず、敗戦後の貧困や食料配分を象徴する出来事として論じられたのです。

2023年、片岡照江さんが語った異なる家庭の実情

2023年4月8日、週刊女性PRIMEは十二代目片岡仁左衛門と登志子夫人の娘である片岡照江さんの証言を掲載しました。

照江さんは、飯田の供述で広まった「食べ物の恨み」という説明を否定しています。

照江さんによると、片岡家では住み込みの人たちとも食事を区別しておらず、父親は知人の遺児だった飯田を気にかけていたとのことです。

つまり、世間に広まった「食事を与えなかったために恨まれた一家」というイメージと、遺族が記憶していた家庭の実情は大きく異なっていました。

獄中から届いた詫び状には何が書かれていたのか

さらに重要なのが、事件から数年後に飯田から届いたという詫び状です。

照江さんによれば、飯田は手紙の中で、犯行動機について次の趣旨を記していたといいます。

「弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした。申し訳なかった」

この手紙の内容が事実なら、事件の初期報道で定着した食べ物の恨み説は、犯人自身が意図的に語った虚偽の説明だったことになります。

そして照江さんは、本当の動機は単純に金銭目的だったと説明しました。

なぜ詫び状は現在も確認できないのか

ここには、事件の真相を追ううえで見逃せない問題があります。

照江さんによれば、飯田から届いた詫び状は、事件資料として新聞記者に貸し出した後、返却されなかったそうです。

そのため、2026年現在も手紙の原本を直接確認できる状況にはありません。公表されているのは、照江さんが取材で説明した内容です。

また、手紙に記されていたという弁護人の助言についても、弁護人本人の発言や別の記録によって裏付けられたわけではありません。

したがって、重要なのは次の2点です。

  • 飯田が当初、食糧問題を犯行動機として供述し、その説明が報道されたことは事件史に残っている。
  • 2023年に照江さんが詫び状の内容を明かし、金銭目的だったという別の説明を提示したが、原本は失われている。

食べ物の恨み説には重大な疑問が生じています。しかし、詫び状が現存しない以上、手紙の内容だけで真の動機を完全に確定することもできません。

【金銭目的説の真相】600円の紛失と薪割り斧をめぐる食い違い

食べ物の恨み説に代わって浮上したのが、金銭目的説です。

この説を考えるうえでは、事件直後に確認された現金の紛失と、照江さんが後年語った飯田の人物像が重要な手掛かりになります。

郵便貯金600円がなくなっていた

事件直後の報道によると、片岡家では事件前に郵便貯金600円が払い戻されていました。しかし、事件発覚後、その現金が見当たらなかったとされています。

また、室内には物色された形跡がありました。

2026年に再紹介された事件史では、飯田が逮捕された際、所持品の中に現金580円と米があったとも記されています。

これらの事情は金銭目的説を考える材料になります。ただし、紛失した600円と逮捕時に所持していた580円が同一の現金だったと確定できる資料が示されているわけではありません。

歌舞伎の楽屋で紛失物が増えていたという証言

照江さんは、父親と交流があった役者たちから聞いた話として、飯田が歌舞伎の楽屋に出入りするようになってから紛失物が増えたと説明しています。

加えて、周囲の役者たちは仁左衛門に対し、飯田の扱いについて注意するよう伝えていたともいいます。

それでも仁左衛門は飯田をかばっていたというのが、照江さんの証言です。

この話は金銭目的説を補強する状況証拠として注目されますが、過去の紛失物と事件当日の現金が直接結び付いたと確認されたわけではありません。

薪割り斧はどこから持ち込まれたのか

もう一つ、従来の事件説明と遺族の証言が食い違うのが凶器の出所です。

初期の新聞報道では、片岡家の庭先に血の付いた薪割り用の斧が残されていたと伝えられました。

また、飯田の供述を紹介した後年の記事では、廊下に立てかけられていた薪割り斧につまずいたことが犯行のきっかけになったという説明も登場します。

しかし、2023年の週刊女性PRIMEの取材で照江さんは、これとは異なる証言をしています。

照江さんによると、実際の凶器はマサカリ状の薪割り道具で、近所に住んでいた警察関係者の家にあったものだったといいます。

この証言は、犯人の供述に基づく従来の説明と明確に異なります。

ただし、凶器の保管場所や持ち出しの経緯を裏付ける現物資料が公開されているわけではありません。凶器の出所についても、現段階では証言と過去の報道を区別して理解する必要があります。

【裁判と判決】飯田利明が死刑ではなく無期懲役になった理由

一家5人が殺害された事件でありながら、飯田利明に言い渡された刑罰は死刑ではなく無期懲役でした。

検察側は死刑を求刑していましたが、1947年10月、東京地方裁判所は無期懲役を言い渡しました。

精神鑑定で争点になった犯行時の状態

後年の事件史記事によると、公判で飯田は犯行後から逃走中にかけて、数日間はっきりした記憶がないと説明していました。

これに関連して精神鑑定が行われ、数か月にわたる低栄養状態や、犯行前夜に夫妻との間で生じた葛藤が、精神状態に影響した可能性が検討されました。

精神鑑定の記述には、犯行が明確な意識のもとで行われたのか、朦朧とした状態で行われたのかを正確に判断することは難しいという趣旨が含まれています。

後年の2026年の事件史記事は、こうした精神鑑定を踏まえて無期懲役判決に至ったと説明しています。

ただし、判決理由を詳細に検証するうえで注意したい点もあります。2021年の文春オンラインの記事では、事件の判決文そのものが見つからないと指摘されていました。精神鑑定の内容と判決の関係については、後年の解説だけで司法判断の全容を断定することはできません。

判決日は10月22日と27日の記述がある

判決日についても、資料によって表記に違いがあります。

2021年の事件史記事が引用する1947年10月23日付の新聞報道では、前日の22日に無期懲役判決が言い渡されたとされています。一方、2026年の文春オンラインの記事では10月27日と記載されています。

このため、判決の内容である無期懲役は確認できる一方、日付については資料間の異同が残っています。

飯田利明はその後どうなったのか

飯田は無期懲役判決を受けて服役しました。

その後については、1960年代に恩赦によって釈放されたとする事件史上の記述があります。ただし、釈放の正確な年月日や、その後の生活については詳しい情報が明らかになっていません。

事件の重大性を考えると、その後の人生についても関心を持たれますが、確認できる情報は限られています。

【2026年最新情報】片岡仁左衛門事件は再び注目されているのか

2026年には、片岡仁左衛門一家殺害事件が再びメディアで取り上げられています。

特に注目されるのが、鉄人社から刊行された『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』の文庫版です。

2026年4月30日に関連書籍の文庫版が発売

鉄人ノンフィクション編集部による同書は、終戦直後から占領期、復興期にかけて発生した重大事件を取り上げた実録ノンフィクションです。

2024年11月に単行本が刊行され、2026年4月30日には鉄人文庫版が発売されました。片岡仁左衛門一家殺害事件も収録対象になっています。

2026年5月4日には文春オンラインで、飯田利明の生い立ちや事件当時の供述、精神鑑定、遺族の証言を扱った記事が掲載されました。5月9日にも、獄中からの詫び状や凶器に関する証言を取り上げた関連記事が公開されています。

2026年時点で新たに判明したことはあるのか

2026年の再報道で注目すべきなのは、事件の新たな捜査結果が発表されたということではありません。

中心となっているのは、2023年に公表された片岡照江さんの証言と、過去の新聞報道、事件史資料の再整理です。

現在までに報じられている主な論点は次のとおりです。

  • 飯田が供述した食べ物の恨みは、照江さんの証言と獄中の詫び状の説明によって疑問視されている。
  • 金銭目的説には、現金600円の紛失や遺族の証言という背景がある。
  • 凶器の出所についても、当初の報道と照江さんの証言が一致していない。
  • 詫び状の原本は返却されておらず、現在も所在が確認されていない。

また、2026年5月の報道でも、2023年の照江さんの取材証言が重要な情報源となっています。詫び状の発見や、新たな司法判断が公表されたという情報はありません。

したがって、2026年現在の事件の位置付けは、歴史的な殺人事件の再検証という段階です。従来の説明に疑問が提示された一方、動機の全容を最終的に確定する新資料が発見されたわけではありません。

【よくある質問】片岡仁左衛門事件に関するFAQ

Q1:片岡仁左衛門事件はいつ起きた事件ですか?
A1:1946年(昭和21年)3月16日です。東京・渋谷の十二代目片岡仁左衛門の自宅で、仁左衛門を含む5人が殺害されました。

Q2:犯人の飯田利明はどのような人物ですか?
A2:十二代目片岡仁左衛門の座付き作者だった父親との縁から片岡家に出入りし、座付き作者見習いとして住み込んでいた人物です。事件当時は22歳でした。

Q3:食べ物の恨み説は本当に嘘だったのですか?
A3:照江さんは、飯田から届いた詫び状に食べ物の恨みという供述は嘘だったと書かれていたと証言しています。ただし、詫び状の原本は所在不明であり、独立した資料によって内容を確認できる状態ではありません。

Q4:片岡照江さんが明かした本当の犯行動機は何ですか?
A4:金銭目的だったというのが照江さんの証言です。郵便貯金600円の紛失や、歌舞伎の楽屋で紛失物が増えていたという話も関連する情報として伝えられています。

Q5:飯田利明にはどのような判決が下されましたか?
A5:検察側が死刑を求刑したのに対し、1947年10月に東京地方裁判所で無期懲役判決が言い渡されました。

Q6:薪割り斧は片岡家にあったものですか?
A6:当時の報道では片岡家の薪割り道具とされていますが、照江さんは近所の警察関係者の家にあったマサカリ状の道具だったと証言しています。両者の説明には食い違いがあります。

Q7:2026年に事件の新事実は発表されましたか?
A7:2026年4月の関連書籍の文庫化や5月の文春オンラインの記事によって事件が再び紹介されました。ただし、詫び状の原本発見や新たな捜査結果などが公表されたわけではありません。

まとめ:片岡仁左衛門事件の真相を考えるうえで大切なこと

片岡仁左衛門事件は、1946年3月16日に十二代目片岡仁左衛門と家族、住み込みの関係者を含む5人が殺害された戦後昭和の重大事件です。

事件直後、飯田利明の供述を中心に「食べ物の恨み」が犯行動機として広まりました。しかし、2023年に片岡照江さんが語った獄中からの詫び状の内容は、その説明を大きく揺るがしました。

照江さんが伝えたのは、飯田が食べ物の恨みという説明は嘘だったと認め、実際の動機は金銭目的だったという内容です。現金の紛失や楽屋での紛失物に関する証言も、この説明と関連しています。

一方、詫び状の原本は返却されず、凶器の出所にも証言の食い違いがあります。無期懲役判決の詳細を記した判決文についても、後年の事件史記事で所在が確認できないと指摘されています。

【プロの結論】この事件から読み取るべき3つの視点

第一に、犯人の供述と実際の動機は必ずしも一致しないということです。取り調べで語られた内容が新聞で繰り返し報道されると、それが事件の確定的な説明として社会に定着することがあります。

第二に、遺族の証言は事件の理解を更新する重要な情報源です。片岡照江さんの証言は、長年語られてきた食べ物の恨み説に疑問を投げかけました。とりわけ、被害者側の記憶が十分に取り上げられなかったことは、事件報道のあり方を考えるうえでも重要です。

第三に、新しい証言による再検証と、真相の完全な確定は別の問題です。金銭目的説には複数の状況証拠がありますが、詫び状の原本や凶器の出所を直接裏付ける資料が確認されていない以上、動機のすべてが解明されたとはいえません。

2026年現在、片岡仁左衛門事件をめぐる最大の論点は、単に「食べ物の恨みだったのか、金銭目的だったのか」という二者択一ではありません。なぜ一つの供述が長年にわたって事件の定説となり、遺族の証言が広く伝わるまで77年もの時間を要したのかという、報道と記憶の問題でもあります。

十二代目片岡仁左衛門が残した歌舞伎界での功績と、事件によって人生を奪われた5人の存在。その両方を忘れず、伝聞と確認できる事実を区別して事件を記録し続けることが、現在に残された課題です。

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真壁 拓也

アニメ・漫画担当として6年以上の取材経験。anime領域の公式発表・配信元の告知を一次情報として確認し、確認できない情報は記事に含めない方針です。

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