2026年現在、元大相撲第52代横綱・北の富士勝昭さんは、2024年11月12日に82歳で亡くなっています。本名は竹沢勝昭。現役時代に幕内優勝10回を達成し、引退後は九重親方として千代の富士、北勝海という2人の横綱を育てました。加えて、NHK大相撲中継では歯に衣着せぬ辛口解説とユーモアあふれる語り口で、長年にわたって相撲ファンから愛されました。
北の富士さんの人生には、ライバル玉の海との「北玉時代」、九重部屋の師匠としての功績、1998年から始まったNHK解説者としての第二の人生など、数多くの転換点があります。2026年10月には、かつて放送席で共演した元NHKアナウンサーによる回顧も発表され、改めてその人柄と功績が注目されています。
【2026年最新】北の富士勝昭の現在は?2024年11月12日の死去と最期
北の富士勝昭さんは、2024年11月12日午前、東京都内の病院で82歳で亡くなりました。訃報が明らかになったのは同月20日で、翌21日には各スポーツ紙や報道機関が詳しい経歴とともに死去を伝えました。
亡くなったのは大相撲九州場所の開催期間中でした。現役時代の実績だけでなく、長年NHK中継の解説席を務めてきた人物の訃報に、相撲関係者や視聴者から惜しむ声が相次ぎました。
2023年春場所から解説を休養
北の富士さんは2023年3月の春場所から、NHK大相撲中継への出演を休んでいました。その後も復帰が待たれていましたが、体調面の事情から解説席に戻ることはありませんでした。
2024年7月14日の名古屋場所初日には、約1年半ぶりにNHK中継へVTRで登場しています。着物姿で視聴者にあいさつし、当時の横綱・照ノ富士や大の里らについて期待を語りました。
ただし、これはスタジオや解説席への本格復帰ではありません。番組内で映像出演したもので、同局からは、この後の場所も休むことが説明されていました。
2024年12月に八角部屋で「しのぶ会」
北の富士さんの死去後、2024年12月18日には東京都墨田区の八角部屋で「北の富士勝昭さんを偲ぶ会」が開かれました。
八角部屋の公式案内によると、一般の参列者も参加できる追悼の場が設けられました。報道によれば、当日は関係者343人を含む約2000人が参列。弟子だった八角理事長(元横綱・北勝海)をはじめ、相撲関係者や著名人が故人をしのびました。
現役横綱、部屋の師匠、そしてテレビの解説者。異なる立場で相撲界に貢献した北の富士さんの存在の大きさが、改めて示された出来事でした。
【生い立ちと経歴】北の富士の本名・竹沢勝昭から横綱昇進まで
北の富士勝昭さんは1942年3月28日生まれ。日本相撲協会の公式プロフィールでは北海道旭川市出身とされています。本名は竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)です。
出身地については資料によって表記に違いがあります。地元の「あさひかわ新聞」は、1942年に北海道美幌町で生まれ、6歳で留萌へ転居し、中学生の頃に旭川へ移った経歴を紹介しています。本人が過去に共同通信へ寄せた文章でも、北海道留萌で育ったことを振り返っています。
14歳で出羽海部屋に入門
相撲との縁が深まったのは少年時代です。同郷の大横綱・千代の山との出会いが、角界入りを意識するきっかけになりました。
1957年1月場所、14歳で出羽海部屋から初土俵を踏みます。最初の四股名は本名に由来する「竹沢」。その後「竹美山」「北の冨士」を経て、現在知られる「北の富士」へと改名しました。
出世は決して一直線ではありませんでした。幕下に上がるまでには時間を要しましたが、1963年3月に新十両へ昇進。同年11月には十両全勝優勝を達成し、1964年1月場所で新入幕を果たします。
新入幕の場所で13勝を挙げると、その後は三役へと進出。1966年9月場所に新大関となり、横綱を目指す力士として存在感を強めていきました。
千代の山に続いて九重部屋へ移籍
北の富士さんの相撲人生を語るうえで欠かせない人物が、元横綱・千代の山です。
1967年、千代の山が出羽海部屋から独立して九重部屋を設立すると、北の富士さんもこれに同行しました。移籍をめぐって角界で大きな騒動が起きたことも知られています。
新天地で迎えた1967年春場所では初優勝を達成。大関としての地位を固め、1970年初場所では玉乃島(後の玉の海)との優勝決定戦を制して優勝しました。
この実績が評価され、1970年3月場所に第52代横綱へ昇進。第51代横綱・玉の海と同時昇進を果たし、相撲界を代表する存在となりました。
【実績と人物相関表】第52代横綱・北の富士の優勝10回と主な転換点
北の富士さんの実績を数字で確認すると、横綱としての強さがよく分かります。日本相撲協会の公式プロフィールによると、幕内優勝は10回。そのうち3回は全勝優勝です。
生涯戦歴は786勝427敗69休。幕内戦歴だけでも592勝294敗62休を記録しました。横綱在位は1970年3月場所から1974年7月場所までの27場所です。
北の富士を取り巻く人物とキャリアの関係
| 時期・人物 | 関係・出来事 | 北の富士への影響 |
|---|---|---|
| 1957年・出羽海部屋 | 14歳で初土俵 | 力士としての出発点 |
| 1967年・千代の山 | 九重部屋の独立に同行 | 新たな環境で初優勝を達成 |
| 1970年・玉の海 | 第51代・第52代横綱として同時昇進 | 北玉時代を形成 |
| 1974年・井筒部屋 | 名古屋場所後に現役引退、部屋を創設 | 指導者として第二の人生へ |
| 1977年・九重部屋 | 先代九重親方の死去に伴い部屋を継承 | 千代の富士、北勝海を指導 |
| 1992年・千代の富士 | 九重部屋を譲る | 後進へ部屋の運営を引き継ぐ |
| 1998年・NHK | 日本相撲協会を退職し、解説者へ | 放送を通じて相撲界に貢献 |
| 2024年11月12日 | 82歳で死去 | 長年の相撲人生に幕 |
幕内優勝10回はどれほどの実績なのか
幕内優勝10回という記録は、北の富士さんが一時代を代表する横綱だったことを示しています。
特筆すべきなのは、横綱昇進前から優勝を重ねていた点です。1967年春場所の初優勝を皮切りに、大関として実績を積み上げ、1970年には玉の海との同時昇進を実現しました。
また、全勝優勝を3回達成している点も見逃せません。単に優勝回数が多いだけでなく、場所を通して安定した強さを発揮できる力士だったことが数字から読み取れます。
日本相撲協会の記録では、得意技は左四つ、外掛け、上手投げ。185センチの長身を生かした取り口と、攻めに転じる速さが持ち味でした。
【北玉時代の真相】北の富士と玉の海はどんなライバルだったのか
北の富士さんの現役時代を象徴する言葉が「北玉時代」です。これは第52代横綱・北の富士と、第51代横綱・玉の海が土俵の中心に立った時代を指します。
2人は1970年初場所後に同時昇進しました。柏鵬時代の後に生まれた新たな横綱時代として、大きな期待を集めました。
対照的な取り口が生んだ名勝負
2人の魅力は、相撲のスタイルが異なっていたことにもあります。
玉の海はどっしりとした体格を生かした右四つの力強い相撲が特徴。一方、北の富士は長身とスピードを生かした左四つの攻めを得意としていました。
共同通信の用語解説によると、北玉時代に両者はそれぞれ4回の優勝を記録しています。本割での対戦成績は北の富士が6勝4敗とリードしていました。
実力が拮抗しながらも、取り口には明確な違いがある。この対照的な個性が、当時の相撲ファンを魅了した理由の一つでした。
1971年、玉の海の急逝で時代が終わる
北玉時代は長く続きませんでした。
1971年10月11日、玉の海が27歳の若さで急逝します。現役横綱のまま亡くなったことは相撲界に大きな衝撃を与えました。
ライバルであり、親しい存在でもあった玉の海を失った北の富士さんの悲しみは深かったと報道されています。北玉時代は、2人が同時昇進してからわずか10場所で幕を閉じました。
北の富士さんはその後も土俵に立ち続けましたが、輪島や北の湖など新世代の力士が台頭。1974年7月場所で現役を引退しました。
横綱としての活躍だけでなく、玉の海との友情と突然の別れも、北の富士さんの相撲人生を語るうえで欠かせない出来事です。
【九重親方時代】千代の富士と北勝海を育てた指導力の秘密
北の富士さんの功績は、幕内優勝10回や横綱昇進だけではありません。引退後に指導者となり、昭和を代表する2人の横綱を育てたことも重要な足跡です。
1977年に九重部屋を継承
1974年7月場所限りで引退した北の富士さんは、年寄・井筒を襲名して井筒部屋を興しました。
その後、1977年に元横綱・千代の山の九重親方が亡くなると、部屋を合併する形で九重部屋を継承します。
こうして、現役時代に兄弟弟子だった千代の富士と、後に北勝海となる保志らを指導する立場になりました。
千代の富士を大横綱へ導いた師弟関係
第58代横綱・千代の富士は、北の富士さんの弟弟子であり、後には愛弟子となった人物です。
千代の富士は若い頃、強引な投げに頼る相撲が目立っていました。北の富士さんは、その持ち味を生かしながら、一気に前へ出る速攻相撲へと変えていく指導を行いました。
千代の富士は1981年に横綱へ昇進。最終的に幕内優勝31回を記録する大横綱へと成長しました。
北の富士さんの指導は、厳しく叱るだけではなく、弟子の長所を認めて自信をつけさせることに特徴がありました。
集英社オンラインで紹介された千代の富士の回想でも、北の富士さんは相撲が良くなったときに褒めてくれ、自由な雰囲気を作ってくれる師匠だったと語られています。
北勝海も横綱に育て上げる
もう一人の代表的な弟子が、第61代横綱・北勝海です。北勝海は九重部屋で力をつけ、1986年に大関、1987年に横綱へ昇進しました。
北勝海は引退後、八角親方となり、日本相撲協会の理事長を務める人物へと成長しました。
つまり、北の富士さんは千代の富士と北勝海という2人の横綱を育てただけでなく、後の相撲協会を担う人材も育成したのです。
1992年、千代の富士に部屋を譲る
1992年には千代の富士に九重部屋を譲り、自らは部屋付きの陣幕親方となりました。翌1993年には北勝海が八角部屋を創設しています。
この引き継ぎについては、師弟関係が悪化したのではないかという見方が当時一部で報じられました。しかし、北の富士さんは千代の富士には一人で部屋を運営できる力があるという趣旨の考えを示し、北勝海についても応援する姿勢を語っていました。
師匠としての北の富士さんを評価するうえでは、2人の横綱を育てた実績だけでなく、後進に役割を引き継いだ点も重要です。
【NHK相撲解説の評判】北の富士が視聴者に愛された理由
北の富士さんには、横綱や親方とは別に、もう一つ広く知られた顔がありました。それがNHK大相撲中継の解説者です。
1998年、日本相撲協会を退職した北の富士さんは、同年の春場所からNHK中継の解説を担当しました。2000年代以降も長く出演し、相撲ファンにとっておなじみの存在になりました。
歯に衣着せぬ辛口解説とユーモア
北の富士さんの解説が人気を集めた理由は、技術論だけに終始しなかったことです。
力士の取り口や立ち合いの問題点を率直に指摘する一方、時にはユーモアを交えた表現で場を和ませました。勝った力士を無条件に褒めるのではなく、負けた力士に対しても、次につながる視点から厳しい意見を伝える姿勢が特徴でした。
また、着物を粋に着こなした姿も印象的でした。現役時代からファッションや歌など多方面に関心を持っていた北の富士さんらしく、解説席でも独特の存在感を放っていました。
舞の海との掛け合いも人気に
NHK中継では、元小結・舞の海秀平さんとの掛け合いも話題になりました。
経験豊富な北の富士さんが鋭い意見を述べ、舞の海さんが別の角度から解説する。そのやり取りは、単なる技術解説を超えた見どころになっていました。
スポニチの報道では、舞の海さんが当初は北の富士さんに話しかけることを遠慮していたものの、少しずつ会話が増え、さまざまな相撲の経験を聞けるようになった経緯も紹介されています。
2026年10月、元NHKアナウンサーが語った素顔
2026年10月8日には、元NHKアナウンサーの吉田賢さんが文藝春秋で北の富士さんとの思い出を語りました。
吉田さんは長年、北の富士さんと大相撲中継で共演してきた人物です。記事では、放送席での軽妙なやり取りや、相手の話を引き出す気遣い、普段の細やかな人柄について振り返っています。
「いつしか我々の掛け合いは『居酒屋トーク』と呼ばれるようになりました。」
これは吉田さんが2026年の回顧記事で紹介した言葉です。北の富士さんの解説が、単に相撲の勝敗を説明するだけでなく、アナウンサーとの自然な会話を通じて視聴者を楽しませるものだったことが伝わります。
加えて、吉田さんは放送席での豪快な印象とは違う、周囲への細やかな気遣いにも触れています。相手が苦手な飲み物を覚えていて別の酒を用意するなど、人を楽しませることを大切にする人柄が印象的だったといいます。
2021年にはNHK放送文化賞を受賞
北の富士さんは2021年、第72回日本放送協会放送文化賞を受賞しています。
この賞は放送事業の発展や放送文化の向上に貢献した人物に贈られるものです。長年にわたる大相撲中継への貢献が評価されたことは、解説者としての功績を示す重要な事実です。
現役力士としての実績、親方としての育成力、そして放送を通じて相撲の魅力を伝える能力。この3つを兼ね備えていた点が、北の富士さんの特別な存在感につながっていました。
【死因と公表情報】北の富士はなぜ亡くなった?病気と晩年の経緯
北の富士さんの死因については、現在も検索する人が少なくありません。2024年11月12日に東京都内の病院で亡くなったことは報道で確認されていますが、直接の死因について、遺族や日本相撲協会から具体的な病名が公式発表されたわけではありません。
心臓疾患や脳梗塞による入退院が報じられた
2024年11月21日付のデイリースポーツは、日本相撲協会関係者の話として、北の富士さんが直近1年間、持病の心臓疾患や脳梗塞で入退院を繰り返していたと報じました。
また、2024年11月に入って体調が悪化し、東京都内の病院で治療を受けていたことも伝えられています。
こうした報道から、晩年は健康上の問題を抱えていたことが分かります。ただし、心臓疾患や脳梗塞の報道と、2024年11月12日の直接の死亡原因は区別する必要があります。
2016年には心臓の手術も経験
北の富士さんは2016年にも心臓の手術を受け、九州場所を休場したことが報じられています。
その後も解説者として活動を続けていましたが、2023年春場所から出演を休養。2024年7月にはVTRで視聴者に姿を見せたものの、以前のように解説席に復帰することはかないませんでした。
死因について確認できる情報と報道の違い
北の富士さんの最期について、情報を整理すると次のようになります。
- 死亡日:2024年11月12日午前。
- 死亡場所:東京都内の病院。
- 享年:82歳。
- 晩年の健康状態:心臓疾患や脳梗塞による入退院が報道された。
- 直接の死因:具体的な病名は公表されていない。
- 葬儀:近親者によって執り行われた。
インターネット上では「老衰だった」「特定の病気が原因だった」など、さまざまな説明が見られます。しかし、直接の死因として公表された情報と、過去の病歴や関係者の証言を混同しないことが大切です。
北の富士さんの晩年について確実にいえるのは、長期間にわたって療養生活を送り、2024年11月12日に82歳で亡くなったということです。
【北の富士勝昭の現在】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭は現在も生きていますか?
A1:いいえ。北の富士勝昭さんは2024年11月12日に82歳で亡くなっています。2026年現在は故人です。
Q2:北の富士の死因は何ですか?
A2:直接の死因は公表されていません。報道では、晩年に心臓疾患や脳梗塞で入退院を繰り返していたとされています。
Q3:北の富士の本名と横綱としての実績は?
A3:本名は竹沢勝昭です。第52代横綱として幕内優勝10回を記録し、全勝優勝も3回達成しました。
Q4:北の富士と千代の富士はどのような関係ですか?
A4:千代の富士は北の富士さんの弟弟子であり、後に九重部屋の師弟関係となりました。北の富士さんは千代の富士の相撲を指導し、横綱へと育て上げました。
Q5:北の富士と北勝海の関係は?
A5:北勝海は北の富士さんの弟子です。九重部屋で指導を受け、1987年に第61代横綱へ昇進しました。引退後は八角親方となり、日本相撲協会の理事長も務めています。
Q6:北の富士はNHKの相撲解説にいつまで出演していましたか?
A6:2023年3月の春場所から病気療養のため出演を休んでいました。2024年7月14日の名古屋場所初日にはVTR出演しましたが、通常の解説席への復帰は実現しませんでした。
まとめ:【プロの結論】北の富士勝昭が相撲界に残した3つの功績
北の富士勝昭さんの生涯を振り返ると、単に幕内優勝10回を記録した横綱という枠には収まらない人物だったことが分かります。
その功績は、大きく3つに整理できます。
第一に、現役横綱としての実績です。第52代横綱として優勝10回を記録し、玉の海とともに北玉時代を築きました。長身を生かした左四つや外掛け、上手投げなど、技術面でも印象に残る力士でした。
第二に、九重親方としての育成実績です。千代の富士と北勝海という2人の横綱を育てました。特に、弟子の個性を見極めて長所を伸ばす指導は、後世にも語り継がれるものです。
第三に、NHK解説者としての功績です。1998年から長年にわたって大相撲中継を支え、技術的な解説と率直なコメント、ユーモアを融合させた独自のスタイルを確立しました。
人物の経歴を調べる際には、日本相撲協会の公式プロフィールで戦績や昇進記録を確認し、死去や病状については当時の報道と公表情報を分けて読むことが大切です。特に北の富士さんの死因については、病歴と直接の死因を混同しないことが正確な理解につながります。
2026年10月にも、元NHKアナウンサーの吉田賢さんが北の富士さんとの思い出を振り返りました。亡くなってから時間がたっても、その存在が語り継がれていることは、横綱としてだけでなく、親方として、そして解説者として多くの人に愛された証しでしょう。
2024年11月12日、北の富士勝昭さんの人生は幕を閉じました。しかし、10度の幕内優勝、2人の横綱を育てた指導者としての足跡、そして大相撲中継を彩った軽妙な語り口は、これからも相撲ファンの記憶に残り続けます。
主な事実確認資料
- 日本相撲協会「歴代横綱・北の富士プロフィール」
- 共同通信「北の富士勝昭・人物解説」「北玉時代」
- デイリースポーツ・スポニチ・日刊スポーツの2024年11月の訃報および経歴報道
- 八角部屋公式サイト「北の富士勝昭を偲ぶ会」
- 文藝春秋PLUS、2026年10月8日掲載・元NHKアナウンサー吉田賢氏の回顧記事